―330―后は、後の応神天皇となる、「体内王子」と称される赤子を出産する。この呼称は、神功皇后の怪力は母と子が協力して得られた神の力によるものであるということを示唆すると同時に、胎児である皇子が母の胎内にあって既にその支配力を発揮していたということにも言及している。この神功皇后伝説は、12世紀から20世紀にかけて、掛軸、絵巻、絵馬、版本といった私的・公的双方の図柄として描かれてきた。特に18世紀末の寛政の改革の後、そして諸外国からの侵略におびえた19世紀半ばに、神功皇后をめぐる文と絵は上層階級から庶民まであらゆるレベルの言説に現れた。続く19世紀の文字表象と視覚表象において、神功皇后は様々に想像された結果、女神、超人的な力をもつ武装した母、外国への侵略を成功させた先駆的軍人、あるいは貞淑な妻という、幅広いイメージで捉えられた。その中から、ここでは特に2つのイメージについて分析したい。18世紀から第二次世界大戦後に至るまでもっとも頻繁に描かれたのは、鎧兜に身を包んだ姿であり、助言者である武内宿禰と、彼に抱かれる幼子の応神天皇とともに擬似的な軍神一家を体現した。この神聖なる三位一体は、毎年、端午の飾り物として必ず登場した。享受層の経済状況によって差はあるものの、この図像は、安価な版画になったり、浮田一w(1795−1859)の「武内宿禰・神功皇后図」のように高価な絹地に肉筆で描かれた〔図5〕。外国に戦いを挑み、これを勝利に導く日本軍将軍という神功皇后のイメージは、主に西・南日本の神社に奉納された数々の絵馬に頻繁に現れている。これらの絵馬に、神功皇后は男装の武者として登場し、数々の場面に応じて描かれている。海での応戦のクライマックス、三韓国王にむけて彼らを貶める文句を岩に刻む場面、あるいは王宮の前で三韓国王を跪かせる場面などである(注12)。いくつかの浮世絵には、武者姿の神功皇后像がもつ、強い政治的含意が証明されている。勝川春亭(1770−1820)の三枚組摺物「武勇三番続」(文政年間)の中に神功皇后はただ一人の女性として採り上げられている〔図6〕。神功皇后は正面観の全身像で描かれ、跪く龍王の使者安曇磯良から、潮の干満を左右するという干珠満珠を受け取っている。「ひのもとの/梅の薫りの/つよ弓に/もろこし人の/はなもさしけり」という形上是粘(かたのうえこれば)の狂歌は、この図柄がもつ露骨なナショナリズムをよく体言している(注13)。こうした神功皇后をめぐる豊かなイメージを知れば知るほど、これらの物語的背景や軍事的含意が、明治14年から16年の紙幣に描かれた胸像からはすっかり抜け落ちていることに、ますます疑義が深まるだろう。
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