―333―明治天皇と昭憲皇后の代理としての神功皇后先に見たように、明治14年、15年、16年の紙幣デザインは、西欧の王家の肖像画をもとに、神功皇后を西欧と日本のハイブリッドな女帝として描いたものであった。神功皇后にまつわる伝説を排除し、それまで頻繁に描かれてきた神功皇后のイメージにはなかったものが形成された。西欧の先例に従い、紙幣には国家元首の像が刻まれる必要があったが明治天皇を用いることは不可能であったため、さらに神功皇后は三韓に金銀を貢納させたことから外貨を得る先例ともいえるため、その像が明治天皇の理想的な代理表象として採用された。しかし、現前する男性の支配者から古代の文書で言及される女帝へという、この選択の推移についてはさらに詳しく検討する必要がある。19世紀の上層階級および庶民の書物や絵に見られたように、神功皇后は女性的な貞淑さと男性的な剛勇さの双方を体現していた。実際、近代に神功皇后を想像し描いた肖像画は、それ以前に社会的、視覚的、そして文学的知識が広く共有されているという前提があったからこそ、先に述べたような成功をおさめたといえよう。そして、一人の人物が、男性性と女性性の双方を体現するという事態は、明治期にあって未知のことではなかった。西欧の基準に沿うよう努力を重ねるなかで、明治政府はジェンダーを明確化しようとしたが、様々な事例においてその結果は曖昧なものとならざるを得なかった。たとえば、そもそも性別を超えるとみなされてきた仏や天皇についても、そのジェンダーを規定する必要があった。狩野芳崖(1828−1888)が明治16年と21年に制作した「悲母観音」についてもこうした点が議論された。明治21年の改作では観音菩薩のジェンダーはより曖昧なものとなり、髭は強調されず、そのポーズはより女性的になり、また救済を受ける子供の性器も描かれていない。千葉慶氏らの美術史家が論じるように、芳崖の死後、この改作は母と子を描いたものだとされるようになった。その結果、依然として髭があり、かつ菩薩の性別は曖昧であるにも拘らず、作品名は「悲母」観音と呼ばれるようになった(注18)。千葉氏はこの絵に対して様々な解釈を行っているが、その一つとして、この観音の姿は、明治天皇とその臣民が親子(厳密には母子ならびに父子)関係にあることを表していると解釈している。その根拠として、明治2年の政府声明で、新しい政治指導者としての天皇の役割が「日本国ノ父母ニマシマセバ」と言及されていることを指摘している(注19)。同様に、キヨッソーネは神功皇后を明らかに女性像として描いたが、彼女の伝説が人々の無意識下で共有されている以上、彼女の戦闘的/男性的な側面も、彼女の歴史的特性として人々に認識されていたといえるだろう。
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