注たとえば次を参照のこと。Monika Flacke, ed, Mythen der Nationen: Ein Europäisches Panorama,―334―「国家の母」の人格化と解釈でき、その意味において、明治天皇妃である昭憲皇后にとっての先駆者であり手本であったといえる(注20)。明治10年代の紙幣は、洋装の昭憲皇后の写真を予期させるものであった。明治22年、丸木利陽、鈴木真一、そしてキヨッソーネが撮影した「昭憲皇太后御尊影」は、新聞製版やリトグラフを含む様々同時に、紙幣に掲げられた神功皇后のイメージは、若桑みどり氏の用語に倣えばなメディアに掲載された〔図9〕全身像と胸像という大きな違いはあるものの、昭憲皇后像は神功皇后のそれと多くの点で共通している。モノクロームな背景を前に、若干左寄りの堂々と落ち着いたポーズをとり、胸下は三重のネックレスで彩られている。室内の調度は、花瓶に生けられた薔薇、テーブル・クロス、カーペットがある一方、巻物や蒔絵箱が並べられるというように和洋が混在しており、神功皇后像に見られたような、明らかに西欧風の縁取りに桐紋が組み込まれているという和洋折衷様式と呼応している。つまり、昭憲皇后と神功皇后の双方が、和洋ハイブリッドな国母の姿として、そして女性の模範として描かれている。さらに、昭憲皇后が嫡子を授けられなかった代償として日本国に身を尽くしたという点においても、神功皇后はまたとない代理表象であった。なぜなら神功皇后自身、三韓との戦いに勝利をおさめるため、また日本帝国の栄光のために、自らの意思で出産を遅らせるという犠牲をはらったからである(注21)。この点で、明治期に発行された紙幣に、神功皇后が息子である応神天皇抜きで描かれていることは重要な意味をもつのである。結論以上分析してきたように、あらゆる面で近代的な紙幣、公債、そして切手に描かれた神功皇后の公的なイメージは、西欧の文明国に比肩しうるという証しである、永続する過去と未来の発展・進歩を体現していた(注22)。西欧のアマゾンであり、軍神の母であり、異性装をいとわず性別をも変えうる戦士であり、そして三韓の征服者であるという点が、明治近代の国民国家を表象するものとして、装いも新たに提示されたのだった。そしてその像は、明治以前の日本において「神功皇后」が多種多様な意味と目的に供するモチーフとして機能していたことによって近代日本を象徴する視覚表象として大いなる成功をおさめたのだった。
元のページ ../index.html#344