=清水登之日記の研究―339―――15年戦争期を中心に――研 究 者:元財団法人大川美術館 学芸員 春 原 史 寛はじめにアメリカに学んだ日本人画家、清水登之(1887−1945、栃木生)。彼はその後半生を戦争の時代の日本に生きた。本研究では、清水の生涯で、しばしば注目されるアメリカ、フランス滞在期および帰国後の独立美術協会での活動と比較して(注1)、詳細が明らかにされてこなかった「15年戦争」との関わりを、20歳で渡米した際から没年までほぼ毎日記された『清水登之日記』(注2)の調査をもとに考察した(注3)。ところで清水の『日記』は彼の生真面目な性格を反映し、日々の行動の記録が淡々とした感情を排した事象として簡潔な文で綴られており、家族に対する想いの他に(画家であると同時に良き家庭人であった)、美術に関してもそこに何らかの感傷が表出することはまれである。しかし、だからこそ、感情を感じさせる文章が現れた時、そこには実に強い内面が表れているといえよう。清水登之と中国大陸さて、独立美術協会創立会員としての清水は別として、この時期の彼の活動を概観すると、戦争に関連する展覧会への出品、従軍画家協会委員、大日本陸軍美術協会委員、聖戦美術展審査員、大日本航空美術協会員、大東亜戦争美術展審査員、生産美術協会理事などを務めたその経歴が目に入る。そしてそれらの活動を支えた制作の源として、1932年から1944年の間の7回におよぶ中国大陸への渡航と従軍、1回の東南アジアへの従軍が挙げられる。清水がこれほどまでに大陸を目指したきっかけとなった理由、要素はいくつか仮定出来る。まず指摘できるのは、清水の周辺に中国に精通していた人物がおり、その人脈があったことである。清水の弟清水董三(1893−1970)は、日中関係に貢献する多くの人材を育てた東亜同文書院を卒業、同校中国語教授を努め、1929年から外務省翻訳官、1934年から終戦まで北京・上海・南京の大使館に勤務した。支那事変では蒋介石政権との交渉の最前線に立ち、1939年から「梅機関」、1941年からは南京大使館に所属し、汪政権との交渉および日本軍部との調整に奔走した(注4)。もう一人、広島出身の実業家である宮田武義(1891−1992)がいる。宮田は東亜同文書院で董三と同期(12期)であり、商社伊藤商行社員として香港・広東で勤務した後、1920年に外
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