8.ベルンへの亡命、最後のベルン時代(1933−1940):209点―25―められる。表の線描が「調整」の役割を果たすとすれば、裏面のそれは「歪み」を生み出す。画家にとって線描は単なる造形的な要素に留まらず、紙の上を自在に徒歩旅行する固有な性格をもった存在である(注34)。この裏面の絵では、無限定なパターンである「点描」のマトリックス(母型)が、男性的な「太線」によって「歪められ」攻撃されていると読み取れよう。このように生殖の原理が抽象的に表現された裏面の絵は、「繁殖/豊穣」という二重の意味をもつ題名によって表の絵と結び合わされている。1933年、ヒットラーが政権を掌握し国家社会主義政府が誕生すると、モダニズムの画家たちは次々と誹謗中傷を受け「退廃」と烙印された。デュッセルドルフ美術アカデミーの教授職を解雇されたクレーもまた、同年、故郷のベルンへ亡命することを決意する。1935年秋から兆候の現れた皮膚硬化症のため36年には年間作品数が激減したが、復調後、1940年に亡くなるまで最後の創造的混沌を爆発させる。それに伴い、この時期は両面に描かれた作品が最も多く残されているが、その大半を占めるのが1939、40年の紙作品である。特に、作品総目録に登録されていない両年の紙作品の殆どは、その裏面に素描が残されている。また油彩の「両面作品」について言えば、5の時期と逆のことが確認される。つまりタブローの表には「有機的・詩的・形象的」な側面が、裏には「構築的・構成的・抽象的」な側面という組み合せだったものが、この時期になると、抽象的な矩形色面が表に、人物や樹木の形象的なモチーフが裏に見られる(注35)。これは、1920、30年代を通じ議論されてきた「形象対抽象」という問題と「両面作品」の関係を考えるのに興味深い例証である。晩年にクレーの生産量が著しく増えた背景には、大病を経験し、以前のような細かいタッチで画面を構成していくことが困難となり、その代わりに、彼の画法が形態や造形の枷から解き放たれ自由に筆を走らせる様式に変化していったことが考えられる。そのように紙の両面を筆が自在に走る線描画では、表と裏の線が一部重なるように構成されたものが数多く確認される(注36)。紙の透ける性質を利用した「両面作品」は他の時期にもあったが、晩年はそれを一層意図的に行っているのが特徴である。表と裏のモチーフを重ね合わせ、また形態や意味の上で組み合わせることで、こちら側とあちら側を有機的に関連づけている作例として、《無題》〔図11〕を見てみよう。黒い太線による格子のパターンに重ねるようにして家々と風景を描いた最晩年の本作
元のページ ../index.html#35