鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―340―1932年―上海事変戦跡を描く務省情報部顧問として招請され、広田弘毅、吉田茂らと勤務した。1922年に東京日比谷に中華料理店「山水楼」を開店、日中文化人のサロンとして機能した。ここは独立美術協会設立の会場、その後は総会や会合会場ともなり、清水の『日記』に幾度となく登場、彼も日参していることがうかがえる(注5)。董三や宮田から伝わる中国の情報の魅力や、彼らの存在の中国で活動する際の優位性は清水にとって非常に大きいものであったことは容易に想像できる。自然足は中国へと向いたのだろう。またこの二人との関係からか、清水自身も、東亜同文会の発行する雑誌『支那』の表紙絵を手がけるなど(注6)、書院との関係も深くなっており、さらに書院の卒業生が在籍する満鉄や三井物産など、戦前、戦中に中国で有力であった企業にも、清水は満鉄東亜経済調査局が発行する雑誌『新亜細亜』のカットを担当したり(注7)、中国に渡る折は三井物産の紹介状を用意したりと、何かと関わりがあるということが分かる。さて、他の理由として指摘できることがある。1932年2月12日の『日記』に切実な「制作を続けなければならぬが生活の不安が先だ」という言葉がある。例えばこの年、1月20日に日本勧業銀行で32点を展示、25日には帝国生命で小品展、2月25日に三井銀行、26日に慶應倶楽部でと、作品の販売のために都内各所で短期間の作品展示を行い、作品を持って、銀行の各支店や保険会社などを訪ね歩いていることが『日記』からうかがえる。現実の問題としてこれは清水個人のことだけではなく、創立間もない独立美術協会についてもいえることで、特に清水は会の運営に腐心し、資金繰りにはいつも心を砕いていた(注8)。そういった点から、市場としての大陸にも魅力があったであろうということは言及しておきたい(注9)。だが、以上の2点以上に、清水自身が中国大陸の風土に、興味を持ち、魅力を感じていたということがあったのではないだろうか。清水は大陸の、日本では見ることの出来ない雄大な風景や、子供たちをはじめとした人々との交流が好きだと家族に語っていたという話もある。このことを踏まえて、以下本稿では、『日記』から読み取れる清水の中国(および東南アジア)への各渡航の実際について、時期を追って見て行きたい。1932年、従軍する画家としては非常に早い時期である。清水にはもとより「北満と上海で戦争が未だ続いている」(注10)と、事変への関心はあったようだ。3月2日に弟の董三が軍司令部附として上海へ赴任、28日に上海戦線の従軍画家として「海軍では和田三造氏に頼んだから陸軍では僕に頼むよう推薦して置いた」と連絡が入る。

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