鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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4月7日、陸軍省より「陸軍定期交通船便乗許可証」を受け取り、21日には上海に到着している。24日には早速に前線の南翔へ、その後、呉家宅、嘉定、大場鎮などへ行き、戦跡、寺院などをスケッチしている。それらの研究をもとに、陸戦隊から依頼された油彩作品を描き、その他には参謀長や大佐の肖像画を描いている。5月21日から22日に、「上海事変記念展覧会」を開催し、会場には在外邦人、軍人、西洋人が来訪して盛況で、予想以上の売約があったという。6月6日の『日記』に「陸戦隊本部の―341―1935年―福沢一郎、鈴木保徳と大連、新京、ハルピン、奉天、北京を旅行樋口中佐を訪ねて呉淞占領当時の模様を聴く。空は晴れたれどギャットしてること、軍艦と駆逐と二艇浮かべること、占領後万歳を唱える水兵の様大略判明したので着色に取りかかる」とある。この先もそうだが、清水は戦争画の制作においては、研究を重ね、現実の局面をかなり如実に再現しているようである。7月27日に帰国。渡航のきっかけについて『日記』は詳しくないが、3月12日に出発は4月と決定している。すぐに福沢一郎と独立展会場で会って打ち合わせ、満州三人展(独立展)の出品作品を選定した。さらに清水は人脈をたどり、渡航後に備え、可能な限りの紹介状を得ている。「日日新聞の猪田氏」に満州・大連・新京への紹介状を、「牟礼の田島氏」に満鉄本社への紹介状を、日比谷山水楼宮田武義にも満州各地の知人への紹介を依頼、さらに「三井物産の稲葉氏」に紹介状を頼んでいる。軍の関係では参謀本部の平田中佐に満州軍部への紹介状をもらっている。4月12日、大阪より出発し、15日、大連着。直後17日から20日、三人展(大連・満鉄倶楽部)を開催。多くの満鉄社員が押しかけ、日記には「新しい絵は初めてのこととて異様な画風に面喰った人も少なくないようだ」(注11)とある。終了後、新京に先発した清水は(福沢と鈴木は5月3日新京へ)、5月22日、満州国務総理鄭孝胥に面会し、日本画壇展望、満州渡航の目的などを話す。さらに関東軍の石本大佐と原田大佐、中銀理事長五十嵐氏に会い、「賛助員」になってもらっている。おそらく「僕の頒布会」(注12)という言葉が後に出るのでその賛助員であろう。5月7日と8日、新京独立展(文教局社会課・国勢院情報局・満鉄地方社会課後援)を新京公会堂で開催。招待状を700枚、ポスター50枚、新聞折り込み広告9000枚を用意したというこの展覧会は、盛況で、7日には絵葉書が売り切れ、贈答品、献上品の他に6点の売約があったという。清水はここまでの滞在であまり絵を描いていない。人に勧められて南廟の戦跡を描き、「南廟は一寸した地膨れで大した絵になるところでもないが満州より変化は悉様

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