鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―342―1937年−38年―上海戦線を描くため海軍従軍画家として上海、南京従軍な気候があるので興味ある」(注13)と、祭を見学して「汚れた飲食店と早撮り写真屋の多いことと武装した巡警が物々しく警戒していることは珍景である」(注14)という感想を記している。また30日、鈴木が帰国のために新京で別れ、6月11日、清水と福沢はハルピンへ到着。清水は一人で満州里とハイラルを旅行する。そこで砂丘やパオを見学し、古代の遺物などを、興味を持って研究し、「低い丘の連りと群羊、美しい刈り込んだような芝生。花は野生のカキツバタ、ポッピー多し」(注15)とその雄大な自然に感銘を受けている様子がうかがえる。また祭りを見学に行き、馬が「土煙を立てて走り来るのを丘上より眺めた。壮観だ。騎手は十二三才前後。(中略)吾々一行のため特別に一個の包を建てて呉れた。角力を旗長等と同じ天幕の内で見物した。群集は大体東西に別れて応援歌を唱える態面白し」(注16)とあり、素朴な人々との交流に興味を持っているようだ。ハルピンに戻った清水は、福沢と太陽島を訪れロシア風の建築を見、ロシア人のいるエキゾチックな光景に興味を覚えている。28日から30日、ハルピンの日満倶楽部で三人展を開催。新京と大連に比べて入場者数は少なく、売約は一点もなかった。この後、7月7日に清水はハルピンに残る福沢と別れ、16日に新京で日本から来た妻の澄子と合流、8月11日北京へと到着し、弟の董三に会っている。29日と30日に北京飯店で個展を開催。好評で多くの中国人が来場し、2日間で28点の作品が売約となった。9月6日に下関へ帰国している。10月6日、清水は上海の弟董三から上海戦線視察を誘う手紙を受け取る。桜井司令官が旧知で、上海事変関係で軍宣伝部へ手続き中とのことである。翌日には軍司令部から董三へ連絡があり、陸軍報道部へ従軍許可依頼したとのこと。10日、清水が返事をしない内に董三から陸軍報道部新聞班雨宮中佐宛紹介状が届く。13日からの独立秋季展を控えて上海行きを迷う清水だが、この手紙で「出発することに決意した」。12日、清水は雨宮中佐を訪ねて証明書をもらい、15日、海軍省水野中佐に会い従軍希望を話し、翌日従軍許可申請を行っている。なお、後日11月21日、清水は上海で11月20日に来訪した中川紀元に会っているが、清水より前に従軍依頼を出したが、実際の従軍は清水よりも遅くなったということであった。こういった点から中国、軍部に関する人脈の意義が看取できる。清水が船で上海に上陸して董三と合流したのは10月31日。中国軍の撤退は11月9日であり、前線は近い。清水も市街に響き渡る砲声を聞き、南市を攻撃する爆撃機爆弾

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