鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―343―1938年−39年―漢口攻略戦を描くため漢口への投下を目撃している。連日、報道部や新聞社の自動車が都合のつく場合は前線または戦跡まで行きスケッチを行い、部隊長らから戦闘時の話を聴き、士官の肖像画も数多く手がけた。30日、閘北をスケッチしている際に、戦場を視察中で近く帰国して加納部隊長戦死の劇を上演するという市川猿之助に紹介される。清水はその「熱心に感服」し、演劇の背景のため戦跡のスケッチをしている。12月8日、報道班長以下班員と共に自動車で南京へ出発し、13日の南京陥落当日に南京入り、中山門へ一番乗りした部隊をスケッチしている。この後翌年1月6日に南京を発ち、上海へ向かうまで、南京市街、周辺での作品制作が続く。また従軍画家としての清水の立場が分かることだが、12月23日、大使館邸で田中領事、特務機関長佐方少佐により開催された南京自治委員会には清水も同席し、その様子をスケッチ、出席者の似顔絵を報知新聞へ提供している(注17)。上海へ移動後の1938年1月15日から17日、上海日本人倶楽部において戦跡スケッチ展を開催。23日には帰国の途についている。清水は先の従軍から帰還した直後、1月29日に陸軍省の雨宮大佐を訪ね、従軍報告と、3月下旬の再渡航希望を伝えているが、結局渡航は10月になる。9月15日、陸軍省情報部の柴野中佐を訪ね、漢口方面への従軍希望を伝え許可を得る。出発の際、東京駅では「前回の従軍よりはるかに多くの歓送をうけ」た(注18)。10月10日に福岡飛行場より迷彩を施した飛行機で上海着。董三に再会し、15日に南京へ。27日まで、護衛の船団を構成するため、しばらく漢口行きの船がなく足止めされる。その間鶏明寺、硫安工場、紫金山、紫金山天文台、武玄湖、市街では民船、群集をスケッチする。26日、「早朝武漢占領というバルーンが報道部屋上高く上げられた。これを見る支那人の群集は何時まで立ち停ってジット眺めている。どんな気持ちがするか」と『日記』にある。この頃から「難民」を主題とした作品が続き、名もなき民衆を描こうとする清水の意識については杉村浩哉氏が指摘されているが(注19)、清水が中国大陸で東南アジアで現地の人々を描いた時、変わらない素朴な日々の生活を送ろうとしている感情が感じられるのは確かだ。11月3日、陥落から一週間後の漢口に入る。これから12月6日までの間、漢口、武昌、漢陽の市街と周辺をスケッチしている(注20)。漢口日本租界の領事館焼け跡、漢口陸戦隊官舎、中山公園、漢陽の塹壕と防空壕、武漢大学、武昌大学、黄鶴楼、蛇山など、そして多少足を伸ばし、鄂城などもスケッチしている。

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