―344―1941年―本渓湖、奉天、撫順への旅行その他に軍に案内されて激戦地載家山や(注21)、野戦郵便局での局員の活躍(注22)、病院の全景、将校病室、手術室とそこでの西村防疫班の活躍をスケッチしており(注23)、12月5日、献上画である《載家山戦闘図》完成。池田少佐が朝日新聞に指示し、記者を連れてきて写真撮影を行う。作品は第六師団長に手交。13日の『東京朝日新聞』夕刊に「武漢突入の従軍画を献納」として作品の前に立つ清水の写真が掲載されている。星子、南京、上海を経て翌年2月17日帰国。今回の渡航の目的は、満鉄附属地であった本渓湖市を訪れて風景と開発の様子を描いて展覧会を開催することだった。本渓湖は満鉄による治外法権的な統治がなされ、日本の資本(特に大倉喜八郎の大倉組による本渓湖製鉄公司など)による開発がなされ、石炭採掘および製鉄の盛んな街である。こういった目的から、本渓湖市では市長と行動を共にすることも多かった。5月5日、清水は中国大使館と興亜院文化部を訪ね、中国での展覧会開催希望を伝え、23日に東京を出発し(注24)、門司港から船で25日に釜山港着。清水は朝鮮半島を汽車で北上する折に「住家を見たり牛ののろのろした姿も耕人の呑気そうなのも白衣の老紳士が毛で編んだ煙突のような帽子をかぶっているのも見あかぬ風景だ。殊に赤土の山へ植林した松が美しい」と『日記』に記しており、やはり風景への興味と田園の在り様に対する興味を示している。平壌を経由して26日に本渓湖着。早速「新市街建設図」を描くことなり、7月末まで、市街や労働者のスケッチ、国民学校での教員との座談会、生徒への絵画についての講演などを行っている。途中、日本から来た長男育夫と合流し(7月25日から8月22日)、本格的な作品制作に入ったのは、長らく安東の税関で足止めされていた日本から送った画材(額縁、画布、木枠、水彩画道具など)が、憲兵隊に依頼して「軍需品扱い」にしてもらうことで、7月30日にようやく到着してからだった。油彩作品の完成後、市長の協力により、8月30日と31日に本渓湖国民学校の講堂で個展を開催。《本渓湖戦跡》《宮原建築図》などを出品している(注25)。その後9月に奉天で3回、撫順で1回の個展を開催(注26)。これらは盛況で、しかし基本的に日本人に向けたものだったようで、これらとは別に中国人側に依頼、招待された「鑑賞会」を奉天で行っている(注27)。10月4日、清水は「永年待望の承徳」を訪れている。「陵源の街を通過する際は叔母を一人残して此処で骨を埋めた叔父へ合掌した」という目的と共に、熱河行宮、承
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