鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―346―「今晩の三日月と薄い雲とを背景にした踊場は永久に忘れることが出来ないであろう」と、その感動を日記に記す(注32)。1943年―陸軍の委嘱により南京へ1944年―昭南神社へ献納の《工兵隊架橋作業》制作のため上海、南京に滞在生活、酋長の顔などを数多くスケッチに残している。ダイヤ族の踊りを見た清水は8月末、クチンに戻り、今度はミリに渡ることを画策するも、度重なる飛行機と船の運行中止に悩まされることになる。ミリに到着できたのは9月21日のことだった。ここで油田を描き、この研究が、後に日本で2週間かけて制作した《ミリ油田確保部隊の活躍》へと繋がる。9月末、ゼッセルトン(コタ・キナバル)へ行き、しばらくの間キナバル山を描いている。帰国後の11月、清水はこの山について「(前略)キナバル山はボルネオのすべてを含んでいる感じがした。標高四一七五米、南方随一の高峰、中支の廬山を幾廻りも大きくしたような突兀たる威容、灰白色の岩盤は朝な夕なにその色彩を変え、神秘の容は原住民の畏敬と信仰の対象である」と書いている(注33)。10月中旬、シンガポール、サイゴン、広東着、台北経由で帰国。5月22日、陸軍省より中国の戦地出張の要請があり、派遣画家26名(注34)の一人として6月22日に南京へ向かっている。この従軍では、軍からの委嘱ということがあってか主に人物画、例えば7月4日には汪主席公館で主席に作品のモデルをしてもらっている。8月27日、上海へ移動し、9月16日から20日、上海大陸新報社の開設されたばかりの画廊で個展を開催した。9月28日、帰国。この従軍の目的ははっきりしており、陸軍委嘱の作戦記録画の制作ためである。4月29日、陸軍美術協会で、マライ作戦記録画制作(完成作品はシンガポールの昭南神社に献納される)を委嘱された画家が集まり、各人の受持ちについて協議。追って5月30日の陸軍美術協会役員総会で10月1日に完成することと決定する(注35)。清水は栗原信と読売新聞社文化部長に現地の写真などの資料を借用(注36)、さらに架橋工事の写真資料を入手するために、松戸の工兵学校の土屋少佐を訪問している(注37)。8月15日、日本を発ち上海着。「引続き陸軍部佐官級の人物を物色して肖像画を描くことにし」(注38)て、後に南京へ移動。9月10日に日本から画布など記録画用の画材が到着、報道部で資料を貰い(注39)、18日、陸軍報道部に行き、5名の兵隊に工兵隊架橋工事のポーズをしてもらい、写真班員に撮影をしてもらって、20日から制

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