注杉村浩哉「清水登之 生涯と画業」および作品解説『清水登之展図録』(栃木県立美術館、1996年)は、清水の生涯と画業について総合的に記述しており、15年戦争中の活動の全体についても述べられている。15年戦争中の『日記』の抄録は『清水登之、滞欧そして帰国後の軌跡』(大川美術館、1999年)に掲載されている。 明治40年から大正5年までをまとめた「畧誌」1冊と、大正6年から昭和19年までの各年1冊(ただし昭和3年の日記は欠けている)、合計28冊の日記が財団法人大川美術館に所蔵されている(未刊行)。最近、長らく所在不明であった昭和20年の日記が発見された(本研究では調査出来ていない)。なお、『清水登之日記』(以下『日記』表記とする)からの引用に際しては、表記を現代仮名遣いに改め、判読不明な部分を適宜補った。■清水が戦争との関わりを濃くしていく昭和7年(1932)から昭和19年(1944)の『日記』を調■清水董三に関しては、『東亜同文書院大学史』(滬友会、1982年)が詳しい。董三は「東翠」と号し、東亜同文書院在学中にスケッチ集『上海の色』を刊行するなど、画才にも恵まれていた。―347―作に入る。28日、制作中の記録画に対し、3人の軍幹部から批評を受け、主要人物の力不足、ゲートルの描き方の不備を指摘され、修正、完成させている。その数日前、26日の『日記』に本作について「最初の頃の面白さはなくなったが記録画としての態勢を調えてきた」との記事があるのは見逃せない。清水の自ら本来の絵画と戦争記録画との間の意識の差異が現れた言葉である。その後10月8日に上海へ戻り、11月23日帰国。おわりに清水は1942年11月7日の日記に「大戦闘が行われなかった北部ボルネオは何処を描いても面白い。兵隊の活躍を構図することが出来ない。絵画的効果を考えて見ると偽りの場面になって困る」と記している。ここまで随所に見てきたような戦争記録画と清水の描こうとしたものとの乖離が、この言葉に直裁に表れていないだろうか。典型的な対比といえばそうなのだが、しかし彼のそのようなあり方は、当時の画家の一つのモデルともいえそうである。日本ではなくて大陸が、南アジアという場が、「旅行」または「従軍」という移動の過程が、二つの背反する絵画を平行して描くことを可能にしていたのではないだろうか(注40)。今回の調査では『日記』の通読を通して、限られた時期の清水登之という画家の全体像を捉えるに留まっている。この素材をもとに、同時代の美術を、また清水の内面的方向に、解読と評価の方向を向けていくべきだと考えている。査対象とした。
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