鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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■宮田武義に関しても前掲書(注4)が詳しい。宮田自身も「遊記山人」と号した作家であった。董三と宮田の関係については、清水日出夫「私の伯父清水董三(東翠)と山水楼宮田武義(遊記山人)先輩の交友について」『文治報 第22号』(文治会、2005年12月8日、20〜23頁)も参照した。■『日記』1941年3月8日に雑誌『支那』の表紙今年分9枚を描き、東亜同文会へ提出するという記事がある。『支那』は1912年から1944年まで月2回発行され、中国・アジア問題の情報・資料を提供した。詳細は前掲書(注4)参照。■『日記』1942年12月17日。■この点に関しては例えば、岡義明「日記にみる…清水登之・滞欧そして帰国後の軌跡」『清水大谷省吾「第3章 大陸の蜃気楼」『地平線の夢―昭和10年代の幻想絵画』(東京国立近代美術館、2003年)の注釈において、「満州国が建設され始めると、画家もまた作品を携えて売りに出かけ、それは新政府の要人になった知己を訪ねたりして紹介をもらい、次々と売れてゆくので一部の画家にとっては満州は楽土のような存在となっていた」(鶴田吾郎『半世紀の素描』中央公論美術出版、1982年)のような記述があることが指摘されている。『日記』1932年2月7日。『日記』1935年4月17日。『日記』1935年7月20日。『日記』1935年5月15日。『日記』1935年5月18日。『日記』1935年6月13日。『日記』1935年6月15日。『日記』1938年2月25日によれば、この日、日劇で展示中の南京の写真を見ており、南京の自治委員会設立当日の写真中に清水のスケッチする姿が入っているという。また写真のうち「中華門附近城壁占領には何か将来描くものへ参考になるところがあった」とのこと。 『日記』1938年10月8日。■杉村浩哉「清水登之 生涯と画業」『清水登之展図録』栃木県立美術館、1996年。 同じ兵站を拠点とした鳥海青児と共に行動することが多かった。鳥海は11月15日に「北支」へ■『日記』1938年11月9日。スケッチする登之の姿を京都の映画班が撮影している。■『日記』1938年11月29日。■『日記』1938年12月6日。■『日記』によると『都新聞』が出発の様子を取材に来ていた。『日記』によると、この中には溥儀へ贈られた作品も含まれていたという。9月16日から18日の個展(撫順・日本人倶楽部)では5500円の、9月28日の個展(奉天・青年『日記』1941年9月26日。派遣されたのは藤田嗣治、伊原宇三郎、中村研一、宮本三郎、寺内萬治郎、猪熊弦一郎、小磯良平、中山巍、田村孝之助、清水、鶴田吾郎、堂本印象、川端龍子、福田豊四郎、山口蓬春、吉岡堅二の16人。なお『日記』4月1日と2日によれば、陸軍省から3200円が支給され、従軍服が支給された。―348―登之、滞欧そして帰国後の軌跡』(大川美術館、1999年)において指摘されている。出発している。会館)には45点出品で2500円の売約があったことが『日記』に記されている。

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