彩管報国隊はグループに分かれて移動したようで、「勇し彩管の征途」『朝日新聞』(1942年4月5日)によれば、清水、鶴田、寺内、中山、川端、福田、山口が同日、東京から共に出発した。『日記』4月21日によると、サイゴンから山口蓬春は香港へ、猪熊、寺内はフィリピンへ出『日記』1942年4月16日。『日記』1942年8月15日。清水登之「ボルネオの霊峰」『朝日新聞』1942年11月21日。原住民の女性2人がキナバルを背にしたデッサンと共に文章が掲載されている。このデッサンとほぼ同じ絵柄が、清水が表紙・扉絵を担当した堺誠一郎著『キナバルの民』(有光社、1943年)の表紙に使用されている。 洋画家では、藤田嗣治、田村孝之助、鶴田吾郎、中村研一、伊藤悌三、猪熊弦一郎、栗原信、井上孝、鈴木亜夫、向井潤吉、小磯良平、柏原覚太郎、田中佐一郎、高畠達四郎、石井柏亭、伊原宇三郎、笹岡了一、川島理一郎、宮本三郎、伊勢正義、清水、鈴木良三。$『日記』によれば、作戦記録画制作費として陸軍省から各人に1000円が支給された。%『日記』1944年4月30日および5月2日。&『日記』1944年6月28日。’『日記』1944年8月22日。(『日記』1944年9月11日に「河南昭南作戦の写真など見せて貰ったが参考になる資料更になし。只機上から見る揚子江の雄大な旭日を浴びたものと鋸歯状にうねうねと山間を流れる揚子江とは面白いと思ったので拡大したものを貰った」とあり、この視点は興味深い。)このような視点から考える時、『地平線の夢―昭和10年代の幻想絵画展図録』(東京国立近代美―349―付記本稿執筆に際して清水登之のご長女である中野冨美子氏、栃木県立美術館・杉村浩哉氏のご助言、ご協力を賜りました。ここに記して感謝申し上げます。発。術館、2003年)の大谷省吾氏の論は大変に示唆に富んでいる。鹿島美術財団注:〈〔参考表〕清水登之年譜(1932―1945年)〉(全10頁)が添付されておりましたが、紙面の都合上、筆者のご了解を得て掲載を割愛させて頂きました。
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