―351―(注8)。靫彦はこの伝説を絵画化したのである。まず主題を確認したい。そもそも法隆寺東院伽藍とは、太子の没後約1世紀の天平11年(739)、太子の住まいであったが没後荒廃していた斑鳩宮跡地に、僧行信がその徳を偲んで創立した寺院である。太子の敬称に因んだ上宮王院が正式名称であり、夢殿は東院伽藍正堂の通称である(注5)。夢殿の名称の由来は、斑鳩宮に夢殿と称する建物があったという伝承によるものである(注6)。さらに夢殿には、太子が夢殿に籠り経典の注釈を書いていると、金人が現れて教示したという伝説が『上宮聖徳法王帝説』に記されており、太子信仰の初期から夢殿にまつわる最も著名な逸話として、人口に膾炙してきた。この伝承は、今日も法隆寺関連文献に姿を留め(注7)、また古代史における太子信仰の研究で注目されている本主題は太子と天女、僧侶だけで表現されている。靫彦は昭和4年(1929)にも「夢殿の聖徳太子」(現「上宮太子」講談社野間記念館蔵)〔図2〕と題した、夢想して座す太子のみを雑誌『キング』の巻頭口絵に描いており、同構想をその後も持ち続けていたことがうかがわれる(注9)。同主題の作品を確認できない、現時点ではこの構想は靫彦の独創としておく(注10)。靫彦が夢殿の主題を選んだ理由の第一としては、天心に対する敬意が挙げられる。周知の如く、天心がフェノロサと共に宝物調査に訪れた際、救世観音像を見るため夢殿が開廟された逸話は、東京美術学校で行われた日本美術史の講義で天心により語られており、当時広く知られていたと思われる(注11)。管見の限り、明治期に開催された博覧会、展覧会出品作のうち、画題から確認出来た太子関連作品は3点であり、そのうち2点が明治37年(1904)、いずれも太子降誕にまつわる画題であった(注12)。当時古代史研究においても、条約改正、対露戦争を背景として、太子の隋に対する対等外交への関心の高まりが見られるが(注13)、少くとも展覧会という公式の場の画題として、太子像は主要なものではなかったことが判る。その要因としては、長年に亘る表現の定形化が顕著な太子像は、清新な気風が求められた歴史画の主題としてはふさわしくないとされたことがまず考えられる。一方、明治期に結成された太子顕彰の団体により、太子像の制作が依頼され(注14)、今日法隆寺に所蔵されている近代の太子像の多くは作家自身による奉納である。靫彦も大正期までに数点の太子像を描いているが、そのうちの2点は大正10年の聖徳太子千三百年御遠忌に際し、自身で奉納したものであった(注15)。こうしたことから、より慎重な検討が必要であるものの、太子像が近代歴史画の創造性とは異なる文脈で制作されていたことが考えられる(注16)。太子にまつわる画
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