(2)色調とモチーフ―352―題は、近代における法隆寺及び太子顕彰の動きを反映しており、制作者側ではなく、むしろ受容者の要請によって描かれていたのである。次に、「夢殿」の内容について見ていきたい。「夢殿」は発表当初から高い評価を得ているが、当時は色彩の弱さ、顔や構図に問題を指摘する評もあった(注17)。もっとも靫彦も制作当時、調子が弱いという非難があるが、太子が夢殿に籠って瞑想する意味でそうしたのだ、と述べていることから、この表現が自覚的であったことが分る(注18)。既に指摘されているように(注19)、本作品の中心である太子像は背後の人物たちよりも強い色調で描かれ、幻想と現実の境界を明確にするとともに、鑑賞者が太子像に視線を集中するように工夫されている。さらに、向って(以下同)左に描かれた天女たちはいずれも抑えた色調で描かれ夢幻的な印象を与えているが、一方各自の持ち物である払子、柄香炉はくっきりと描かれている。太子像の前に置かれた香炉や、右手中央の僧侶の持つ錫杖も同様である。つまり、淡い色調の中にも、強調すべき個々のモチーフはそれと判るように描き出されているのである。さらに以下に示すように、本作品のモチーフ一点ずつには巧みに伝統的表現が取り入れられており、靫彦が太子像を綿密に研究した成果が盛り込まれている。まず中央に座る太子の面貌であるが〔図3〕、今日最も著名な太子像であり、「唐本御影」と称される「聖徳太子二王子像」(以下「唐本御影」とする、宮内庁蔵)の図像に非常に近い表現がなされている(注20)〔図4〕。近代以降の唐本御影の受容を概観すると、美術史研究では黒川真頼による明治28年の『國華』の論稿が早く(注22)、その後同34年刊行の『稿本日本帝国美術略史』でその評価は定着した(注23)。さらに同36年には小学校教科書の構図に採用されたことにより、決定的に広い世代に流布していく(注24)。また同33年パリ万国博覧会にも出品されたほか、絵画共進会、日本美術協会の美術展覧会、博物館の特別陳列にも度々出品されるなど、極めて公開頻度の高い作品の一つであった。つまり、このような認識が定着したのが明治30年代頃であり、「夢殿」が描かれた時期には唐本御影は現代同様、既に「唐本御影」は「新しい太子像」として広く認知されていたのである(注21)。「夢殿」は一見して判る通り、「唐本御影」に範を取った面貌表現を持つ太子が描かれている。それでは背後の人物はどのような役割を担っているのだろうか。それを明
元のページ ../index.html#362