―353―らかにするために、「夢殿」の小下図(個人蔵)〔図5〕と比べてみると、構図や人物配置に大きな変更はないものの、左の天女の持ち物が、竪箜篌、n子といった楽器から、麈尾、柄香炉の法具に変更されている〔図6、7〕。竪箜篌、n子〔図8〕はいずれも敦煌壁画などの西域に由来し、日本の来迎図にもしばしば描かれ、仏や菩薩による奇跡が行われる時、妙なる音楽を奏でる場面に用いられるものである(注25)。一方、本画に描かれた麈尾、柄香炉はいずれも同型のものが法隆寺にあり、太子ゆかりの品とされている。いずれも時代毎に形状が変わっているが、「夢殿」に描かれた柄香炉は、最も古い時代のもの〔図9〕に範を取っている。柄香炉、麈尾とも、同形の近代の模造品が法隆寺に所蔵されていることから、靫彦の時代に太子の時代に近いと判断された形状である可能性が高い〔図10〕。しかし、特に右手に柄香炉を持つ天女に注目すると、左手がやや不自然な形に添えられている。これは、「聖徳太子孝養像」(法隆寺蔵)〔図11、15〕を最古とする一連の「聖徳太子教養像」のほとんどに見られ、鎌倉時代以降は必ず左手に袈裟の裾を掛けるとされる図像と極めて近い(注26)。また、左から二人目の天女の履いている「花先型」の沓は、「聖徳太子教養像」と同型のものである。さらに天女たちの身を包む最も内側の衣は、「太子教養像」の袈裟と同じ緑色である。つまり靫彦は、背後の天女の持ち物を楽器から太子ゆかりの法具に変更することにより、画面を華やかに荘厳するよりむしろ、太子像の伝統的モチーフを画面に盛り込む方を優先したと考えられる。靫彦は明治35年と同40年末から41年にかけて2回奈良を訪れており、2度目には法隆寺蔵の「聖徳太子教養像」のスケッチ(個人蔵)〔図12〕も残している。ここには柄香炉の先の約束も注意深く模写され、靫彦もこの点に注目していたことが分る。これまで、「奈良スケッチ帖」の中で「阿弥陀三尊及二童子像」(法華寺蔵)が靫彦の太子像のイメージソースとされてきたが、「聖徳太子教養像」スケッチ(既出)の描写から、靫彦が太子像〔図16、17〕を描く際、最も流布した太子童形である「聖徳太子教養像」の形式を踏まえていたと見る事が出来る。そして、「夢殿」の天女像に教養太子像に付随するモチーフを散りばめることにより、新たな太子像と伝統的モチーフという新旧の要素を取り入れているのである(注27)。この年の夏、天心の提唱で日本美術院主催による夏期講習会が奈良女子高等師範学校講堂で行われ、佐伯法隆寺管長、伊東忠太、関野貞、奈良女子高等師範学校教員水木要太郎らが奈良美術研究の必要を力説し、とりわけ靫彦は水木の講演に感銘を受け
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