鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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(2)近代数奇者の法隆寺宝物蒐集―「太子祭典」の展観――354―「日本美術の擁護者」という新たな聖徳太子像が抱かれるようになっていくのである。たという(注28)。2度目の奈良留学は、この年天心、橋本雅邦の希望により創設された日本美術学院第1回給費生としてのものであった(注29)。したがって、靫彦が当時一般的と言いがたい太子の画題に敢えて取り組んだ理由としては、2回の奈良滞在と天心への思いが重要な契機であることは間違いないと思われる。しかしながら、靫彦が「夢殿」に伝統的要素を加味するに当っては、そうした表現を理解し得る同時代鑑賞者の存在を想定せざるを得ない。そこで最後に、近代における法隆寺遺物の受容と「夢殿」との拘りについて考察する。2 「夢殿」の制作背景――近代における太子顕彰と仏教美術の再評価――(1)法隆寺遺物の顕彰と美術史・建築史学研究近代に成立した美術史学の発展と軌を一にする形で、仏教美術は再評価されてきた。とりわけ法隆寺関係遺物は明治初年に皇室に寄贈され、御物という特別の位置付けを与えられている。中でも「唐本御影」はしばしば公開され、近代の太子像として流布されたことは先に見た通りである。法隆寺は、明治初年の神仏分離令、廃仏毀釈といった逆境をなんとかしのぎ、その後すぐに興った古器旧物保存の気運を追い風に、寺院運営を軌道に乗せていく。明治末期の「太子祭典」(後述)や、大正期に結成された聖徳太子奉賛会といった明治期の太子顕彰は、そうした法隆寺復興の大きな原動力となったのである(注30)。建築史においても、明治20年代から法隆寺とギリシャ建築との共通性が注目され、明治38年に起り、以後34年間も続いたいわゆる法隆寺再建、非再建論争も、法隆寺と太子への関心の高まりに大いに影響したと考えられる(注31)。近代における太子像には、太子信仰という、古代かられん面と続く宗教的意識を根底に持ちながら、明治以降の美術史学、建築学、歴史学の進捗による新たな聖徳太子像も照射されている。明治末年には、さらに法隆寺宝物の評価の高まりを背景として、次に、大正元年に「夢殿」が描かれた直接の契機として、その前年4月に東京美術学校講堂で行われた聖徳太子顕彰の展覧会を挙げたい。同展の目録『太子祭典展観目録』によると、同展は「都下美術に縁故ある者の組織する」國華倶楽部が、「我邦文化鼓舞の先駆美術擁護の恩賜 上宮聖徳太子」を追善するため、彫刻家高村光雲に太

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