―355―子像を依頼し、法隆寺佐伯管長に開眼供養を要請し、併せて「推古朝」と「支那六朝」の遺物の展観を行うものであった(注32)。同目録には、正木直彦などの美術関係者や、三溪、益田鈍翁ら近代数奇者が所蔵者として記載されている。靫彦が三溪所蔵の古美術の名品を直に学んだのは周知のことであり(注33)、当時の古美術鑑賞をめぐる動向の影響を強く受けていたと考えられる。美術学校という身近な場で開催された展覧会を、奈良でかつてあれほど熱心にスケッチして回った靫彦が見ていないほうが不自然に思われる。同展には先述した「唐本御影」を始め多数の聖徳太子像とゆかりの品が展示されており、靫彦に太子に関する興味を喚起し、自作の主題として選択させた可能性は十分考えられる。(3)三溪旧蔵品に見る法隆寺関係遺物最後に、三溪旧蔵法隆寺関係遺物を見たい。法隆寺宝物が多数流出し、近代の古美術愛好家の手に渡っていたことは、法隆寺執事長であった高田良信に指摘されている(注34)。申請者は三溪の古美術蒐集記録「美術品買入覚」を分析した際、明治36年をピークに同40年代まで、仏教遺物が集中的に購入されていることを指摘した(注35)。同史料で法隆寺遺物は「法隆寺四天持物仙媒」と「法隆寺土人形」で、いずれも明治40年に購入され(注36)、後者は『太子祭典展観目録』に記載がある。また太子関連遺物は、明治36年「天平画聖徳太子額」、同40年の「木刻八歳太子像」の2点である。三渓を始めとした古美術鑑賞者らの存在と太子顕彰こそ、古画の模倣を否定し、創造性を求めた近代歴史画の主題としては適当とは言えない画題を靫彦に敢えて選ばせ、またその内容にも影響を与えたと考えられる。おわりに以上、安田靫彦の代表作「夢殿」が、明治期に新たに光りを当てられた「唐本御影」と、長く描き継がれたモチーフの新旧のイメージが混在した作品であること、聖徳太子の画題が近代歴史画の画題とは異なる文脈で描かれていたことを指摘し、「夢殿」が新しい表現を目指しながらも、伝統的なイメージをも巧みに織り込んでいたことを明らかにした。本作品については夏目漱石が、太子の面貌表現に何らの共感も感じられないことを、一番の欠点として挙げ批判している(注37)。
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