鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注原三渓の古美術蒐集記録「美術品買入覚」第4冊38頁(拙稿「日本近代美術の蒐集家」『人文科学論集』第12号、2003年、28頁)。なお、「夢殿」には「大正元年臘月 原三渓清賞」という三渓による箱書がある。 靫彦の初期歴史画に注目した近年の論考としては、村田真宏「画家としての出発−明治期の成果−」(愛知県美術館『安田靫彦展』図録、1997年)、後期歴史画作品については杉田真珠「安田靫彦の歴史画−ヤマトタケル作品を中心に−」(『川崎市市民ミュージアム紀要』第13集、2000年)、靫彦の生涯を通じた歴史画題に言及した勝山滋による「画題の変遷」(平塚市美術館『日本画の巨匠 安田靫彦 歴史画の魅力』展図録、2002年)がある。■三溪による『日本美術院再興記念展覧会出品目録』(大正3年)書き込み(三溪園保勝会蔵)。ここには、出品作品への三溪の感想が率直に語られており、ここで紫紅の「熱国の巻」を「一代の悪作」としていることから、三溪の近代日本画理解がどちらかと言えば保守的であったことがうかがわれる。■申請者は今村紫紅筆「護花鈴」について、美術愛好家と製作者の美意識の共通性、また主題の同時代世の観点から論じた(「今村紫紅筆『護花鈴』試論―図像の源泉と文化史的背景をめぐって―」『美術史』第159号、2005年)。■鈴木嘉吉「東院伽藍の建築」法隆寺昭和至財帳編集委員会『法隆寺の至宝−昭和至財帳−』第■太田博太郎「夢殿」解説『奈良六大寺大観』第5巻、1971年、9頁。■北川桃雄『いかるがの里 法隆寺』淡交新社、1962年、100−101頁、同『夢殿』創元社、1957■聖徳太子の研究史、太子信仰の展開については、石田尚豊編『聖徳太子事典』(柏書房株式会―356―一方、原三溪は本作品を非常に高く評価していた。「夢殿」には、靫彦の天心と法隆寺への思いの他に、古美術に精通し、古い表現に愛着のある鑑賞者への配慮も込められている。既に述べてきたように、近代において太子像はそれまでの神秘的な信仰の対象から、政治、文化、仏教史上に多大な功績を残した偉大な人物として新たなイメージが与えられ顕彰されていった。「唐本御影」にはそうしたイメージが重ねられ、流布していったと考えられる。大正期以降、太子顕彰の動きは加速していくことになるが、靫彦も2度に亘る奈良訪問以降、法隆寺と深く拘っていく。大正初年に描かれた「夢殿」は、こうした顕彰の反映と言うことが出来る。「夢殿」は、靫彦が奈良遊学の後、数年間の病気療養を乗り越えて挑戦した初の大作であった。繊細な色調や柔和な描線、人物表現は、大正期以降の新古典主義と称される独自の作風への展開を十分に示している。しかしそれ以上に、入念に構想された本作品には、靫彦自身の個人的な意向を超え、同時代鑑賞者の求める太子像が投影されているのである。2巻、小学館、1996年、240頁。年、32−35頁。

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