図版解説(講談社野間記念館編『美のながれ 講談社野間記念館名品図録』2005年、276頁)。『東洋画題総覧』第10冊(金井紫雲、芸艸堂、1943年)には小堀鞆音による「夢殿」(岡谷惣本挿話の詳細については山口静一「法隆寺夢殿開廟をめぐって」(『フェノロサ』三省堂、1982富樫景堂「聖徳太子」(第12回日本絵画協会、明治35年)、廣瀬勝仙「厩戸皇子降誕」(第5回同年古代史研究者久米邦武も、「聖徳太子の対外硬」(『太陽』1904年1月)を書き、本格的な太子研究をまとめている。この時の研究が太子研究の基礎とされていることから、古代史研究にもこうした対外関係が影響を及ぼしていることがうかがわれる。聖徳太子千三百年法会の前年である明治24年、京都の名家が発起人となり、久邇宮朝彦親王が、仏教関係者による太子銅像建立を委嘱し(『讀賣新聞』9月28日、第2面)、明治44年、日露戦争記念護国塔内に、上宮協会の河瀬秀治、前田健二郎が中心となり、木彫家竹内久一による聖徳太子像が奉納された(『讀賣新聞』3月26日第3面)。法隆寺には、大正10年の聖徳太子千三百年御忌法要の際、当時高名な彫刻家に依頼された「行道面」が奉納されている他、太子像や関連作品が多数奉納されている(『聖徳太子1380年御忌記念 法隆寺展』図録、2001年)。明治30年代、横山大観や菱田春草により、釈迦の生涯である仏伝が岡倉天心の提唱した新たな歴史画の画題として描かれていた(佐藤志乃「横山大観と菱田春草の渡印後の作品について」『芸術学研究』第3号、1999年)。川合玉堂「夢殿と近江八景と」梶田半古「静かな絵と面白い絵」『日本美術』1912年11月。こ 「研究十余年 安田靫彦氏談」『讀賣新聞』1912年10月23日5面。■橋秀文「安田靫彦の夢と現実」『三彩』No.477、1987年、58頁。 北川桃雄は「夢殿」を文展出品当時見ており、「唐本御影」との共通性を指摘している(前掲■「唐本御影」の図像は太子像としては特異であり、「唐本御影」の図像が太子像とされるには、近代以前の法隆寺関係者による尽力があった(佐田佐知子『信仰の王権 聖徳太子』中央公論社、1993年)。■黒川真頼「聖徳太子御像の弁」『國華』第71号、1895年。■東野治之『書の文化史』1994年、同「近代歴史学と作品評価『御物聖徳太子画像』をめぐって」■東晋次「戦前・戦後の聖徳太子像」『「社会学」研究』第10号、1985年)。濱田隆「来迎図」『日本の美術』第273号、1989年、17頁。武田前掲書37頁、石川知彦「聖徳太子像の展開」前掲『聖徳太子事典』374頁。二度の奈良旅行のスケッチは一部を除いて既に紹介されており、その重要性も指摘されている安田靫彦「日本美術院再興の頃―思い出を語る−」『現代の眼』第131号、1965年、5頁。―357―社、1997年)、大山誠一編『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)を参照。助蔵)の記載があるが、未確認である。年、208−224頁)に詳しい。紅児会、明治37年)、小泉昇魚「太子降誕」(第3回二十日会、明治37年)。こではまた先行作品である菱田春草「賢首菩薩」との類似性も指摘されている。『夢殿』24頁)。『美術フォーラム21』VOL.4、2001年。(佐々木直比古編『日本画素描大観』4「安田靫彦」講談社、1981年)。本講演については『奈良県の百年』(山川出版社、107頁)、『水木家資料目録』(国立歴史民俗博物館資料目録3)参照。本資料は奈良県立図書情報館鈴木陽生氏の御教示による。
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