?中世の能装束に使用される舶来染織の基礎的研究―362―――関・春日神社所蔵能装束を中心に――研 究 者:東京国立博物館 研究員 小 山 弓弦葉はじめに能楽は、明治維新以前は「猿楽」とよばれ、平安時代末期から行われていたとされる古典芸能である。南北朝時代、三代将軍・足利義満(1358−1408)の後援によって観阿弥(1333−84)・世阿弥(1363?−1443?)が台頭し、世阿弥によって猿楽が上流階級の人々が観劇する芸術として大成されるが、世阿弥が遺した数々の伝書の中にも、装束に関する記述が見られる。たとえば『申楽談儀』には「翁の装束、真実の晴の形は、定て別に口伝あるべし。さのみてばてばしくはなかりし也。しとやかに出で立べし。金襴などは、さして見及ばず。色は正色なるべし」「空也上人の能などに錦〔金〕紗(注1)を帽子に着る、是もなんとやらん悪し」とある。当時、日本では、金糸で紋様を織り出す金襴や金紗を織る技術は伝来していなかったから舶来品であろう。世阿弥は、豪華な衣装が不適当である能には、金襴や金紗といった裂を使用することを否定しているが、逆に、一般的には金襴や金紗など高価で華麗な舶来裂を使用していたことがうかがえる。実際、能役者が着用する装束の多くは、能を演じた際に権力者から拝領した舶来裂であった。例えば『大館常興日記』天文11年(1542)2月12日の条には「今度唐船に猿楽の衣装に成つべく候着物御座候間」また『多聞院日記』天文12年(1542)2月14日の条には「[前年火事で装束類を失った観世太夫の為に将軍から]金襴緞子以下ノ装束十七具調テ被下了」「旧冬唐土ノ王ヨリ金紗金襴以下ノ物百廿端被送了 以之沙汰之云々」とあり、明から華やかな染織品が送られ、それを権力者たちが能装束に仕立てて猿楽の太夫に与えた記録がある。また、名物裂の中にも、能装束にちなむ裂が含まれる。たとえば「二人静金襴」は、足利八代将軍義政(1436−1490)が「二人静」を舞った際に能装束に使用したと伝えられている。「金春金襴」「金剛金襴」はともに、晩年の豊臣秀吉(1537−1598)が大坂城中で演能を行った際、金春座・金剛座、それぞれの太夫に引出物として下賜したものと伝えられ、それらはいずれも明から舶載された金襴である。以上のように、歴史史料によれば、日本中世における能装束の多くが大陸から舶載された美麗な染織を使用していたことをうかがわせる。岐阜県関・春日神社に伝わる能装束はそういった中世の能装束の様相を伝える好例で、室町時代後期から安土桃山時代にかけての能装束が39件(附属も含めると63件)、一括で国指定重要文化財に指
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