―363―定されている(注2)。その内、狩衣・法被・側次はすべて、銀襴・緞子(注3)・黄緞(注4)といった舶来染織が使用されている。これらの能装束に使用される舶来染織は通常の名物裂のように、江戸時代以降にも日本で模倣され、愛好された形跡は見られない。舶来裂製の能装束をまとまって伝えてきた例は関・春日神社以外では皆無に等しいが、今までその全容が紹介されることはなかった。本稿では、織銘入りの銀襴のみではなく、それ以外の銀襴・緞子・黄緞の内容について詳細に調査し、室町時代後期における舶来染織の一端を紹介したい。関・春日神社に数多くの舶来裂で製作された能装束が伝存する理由は、春日神社が関鍛冶の守護神社であり、応永年間(1394−1428)から慶長年間(1596−1615)にかけて隆盛した関鍛冶の日本刀が、応永年間から天文年間(1532−55)にかけて勘合貿易によって大量に明国に輸出されたため、その見返りとして、多くの舶来裂が流入することとなったと言われてきた(注5)。しかし、上述したように、当時における狩衣や側次といった織物製の能装束が唐物で作られるのはむしろ当然のことであった。春日神社に所蔵される能装束の中には、当時の日本の染織技術を生かした刺繍や描絵、摺箔を施した小袖類もほぼ原状を維持した状態で伝存している。また、関鍛冶の職人たちが、直接、明国と貿易を行ったとは考えがたい。このようにまとまった数の能装束を所有することのできた関鍛冶の実力の後ろ盾として、関鍛冶と春日神社の能装束との間に介在する権力者の存在を想定したい。関・春日神社所蔵能装束における舶来染織に関する考察まずは、春日神社が所蔵する舶来染織で縫製された能装束について詳しく紹介し、これらの染織の特色をうかがうこととしよう。春日神社には現在15領の舶来品の能装束が所蔵されている。その内訳は〔表1〕の通りである。裏地が同じ素材・色であると考えられるものは、同じ時期に製作された可能性が高い。裏地にいくつかの種類が見られることから、すべての装束が同時期に製作されたものではないと考えてよいだろう。重文指定名称をみる限りでは「花鳥文様」という名称が多く、同じ裂で製作されているようにみえるが、詳細に能装束の縫製状態を調査すると、何種類かの裂を継いだ跡や、同じ文様の裂でも、同じ一反の織物から製作されていない場合もある。それぞれの能装束に使用されている裂は、もともとは明国から反物の状態で輸入されたのであろうが、その後、どのような形態の変遷を経て、春日神社の能装束として調製されたのだろうか。春日神社における舶来染織裂の分類について考察し、15領の能装束に使用される裂の分類を試みたものが〔表
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