―365―襴袿と全く同じ文様の銀襴である。端切状の古裂も活用していたことをうかがわせる。緯糸に木綿糸が使用された交織については、通し番号15番の赤茶地花唐草文様黄緞(G)〔図2 No.17狩衣 花唐草文様銀襴 部分図〕〔図3 No.17狩衣 花唐草文様銀襴 部分拡大図〕、通し番号16番の赤茶地連珠連雲梅牡丹唐草兎虎龍文様黄緞(H)〔図4 No.18狩衣 獣花文様黄緞 部分図〕〔図5 No.18狩衣 獣花文様黄緞 部分拡大図〕、通し番号24番の赤茶地如意雲龍宝尽文様黄緞(N)〔図6No.22法被 雲龍文様黄緞 部分図〕〔図7 No.14法被 雲龍文様黄緞 部分拡大図〕の3種類が使用されている。これらの交織に共通して言えることは、やはり、漆箔糸の平銀糸が織り込まれている点である。経糸を絹糸、木綿を緯糸にした交織は江戸時代以降にはあまり使用例が見られない。江戸時代以降、様式化された能装束の中でも、金襴、錦は使用されるが、黄緞の使用例は見られない。江戸時代に入るまで、日本では綿花栽培が普及せず、木綿は日常生活の中であまり使用されなかった。黄緞は日本で木綿が製作される以前の、稀少な木綿製品として明国から舶載されてきたのである。一方、朝鮮半島でも16世紀の貴族の墳墓から、経糸を絹、緯糸を木綿とした交織(絲綿交織)が数多く発見されている。現在確認できる例の内、ほぼ年代が明らかな例を〔表2〕にまとめた(注8)。いずれの例も墳墓からの発掘で、木綿糸を緯糸とし、経糸を細い無撚の生糸とした平組織である。また『朝鮮王朝実録』の中にも(在位1506−44)の実録に「交織」、う点からも見ても実用性の高い素材として貴族たちの間で使用されるようになったことをうかがわせる。日明貿易では、明国から寧波を経て対馬へというルートを辿るが、明国で織られた黄緞は、その技術も生産物もまったく朝鮮半島へは伝わらずに日本にのみ舶載されたということになる。中国と朝鮮がそれぞれ独自の技術で木綿を利用しはじめたことをうかがわせ、興味深い。一方、日本は中国だけではなく、朝鮮とも日本刀の取引をおこなっていたといわれるが(注11)、朝鮮で製作されたような平組織の実用的な交織は、今の所、日本では発見されていない。日本では木綿製品は製作されなかったものの、春日神社では能装束の中でも特に、神能を演じる際に使用された(在位1545−67)の実録に「絲綿交織」「絲麻交織」の名称が見られ、16世紀に交織が織られていたことを裏付ける(注9)。このように朝鮮では多くの交織製品を製造したが、日本のように金銀糸や絹の絵緯糸で文様を織り出した黄緞の製作例は1例も発見されていないという(注10)。この時代に、木綿と絹との交織が見られる事実は、木綿が朝鮮半島で普及し始め、平織とい
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