―366―狩衣や法被に黄緞が使用されている。黄緞が使用されている能装束は、他に秋田の黒川能に伝存する緑地蜀江文黄緞狩衣のみであるが、これもまた、黒川能の上座の長が一生に一度、《翁》を演じる際のみに使用を許された秘蔵の狩衣であった。これらの伝存例は、日本では木綿が、朝鮮のように実用性の高い素材としてよりもむしろ、黄緞に見られるように、新参の高価な木綿製品として珍重されていたことをうかがわせるのである。緞子については、通し番号19番の黄地四合雲文様緞子(I)、通し番号26・27番の黄地蓮唐草文様緞子(Q)の2種類で、使用されている織幅は約60cmあまりの広幅である。ここにみられる大柄な四合雲文様は、例えば、中国では南昌o靖王夫人p氏(1439−1504)墓から発見された染織にも見られ(織幅59.5cm)(注12)、また、朝鮮半島でも、例えば京畿道楊州郡原州邊氏脩(1447−1524)墓から四合雲文様の服飾が発掘されている(注13)。関・春日神社の特異な点は、経糸が細くほとんど撚りがなく、よろけている点である。これらの銀襴・黄緞・緞子について共通して言えることは、すべて経五枚繻子組織で経糸が非常に細く、糸込みがほぼ1cm幅に110〜120本前後で、経糸の緊張がなく緩いため、よれている点である。3つの異なる分類の織物に共通して言えることから、これが、当時における繻子織の1つの傾向であったことがうかがえる。明時代に盛行する繻子織の多くは、経糸の糸込みがこのように密であるが、前述した中国や朝鮮の高官の墓から発見される染織の中には、春日神社にある一連の布帛のように経糸が細くよろけるものは見られず、いずれも撚りが強くかかり緊密に織られている。やはり、民間の工房と官製との違いと考えるべきだろうか。春日神社にある15領の能装束は同じ文様の装束が銀襴9領、緞子2領あるにもかかわらず、使用されている裂地は17種類におよぶ。銀襴緞子については織幅が50cm以上はある広幅であることを考慮すれば、もし、これらの舶載染織が日明貿易で関に直接持ち込まれたならば、特に赤茶地蓮鳳凰菊花縞文様の裂など、これほど多くの種類に裂地を合わせて製作することはなかったはずである。つまり、これら舶来品でできた能装束は、関で製作したと考えるよりも、古裂を含む多彩な舶来染織をストックしていた権力者によって調製され、春日神社にもちこまれたと考えるのが妥当である。関・春日神社の能装束の調製主に関する考察それでは、関・春日神社の能装束に関わった権力者とは、誰が想定できるであろうか。春日神社の能装束は一度に調製されたものではないことを前述したが、実際に能
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