鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―367―装束を春日神社に提供した権力者もまた、複数の可能性も含めて考えることとしたい。春日神社に所蔵される能面には年記がある。それによれば天正9(1581)年寄進銘の能面が1面、天正15(1587)年寄進銘の能面が2面、慶長2(1597)年寄進銘の能面が2面ある。演能の際、共に必要とする能装束もまた、この銘文に記された時期に製作された可能性が考えられよう。春日神社で使用されている蓮鳳凰菊花縞文様銀襴と同じ文様の裂が、上杉神社に伝わる上杉謙信(1530−78)所用の金銀襴緞子接ぎ合せ胴服に端切れを継ぎ合わせたように部分的に使用されている。また、浅井久政(?−1573)像・浅井長政(1545−73)像・浅井長政夫人(お市の方 ?−1583)像といった16世紀後半の室町時代末期から桃山時代に描かれた肖像画の表具にも用いられている(いずれも滋賀・持明院所蔵)。以上を考慮すると、関・春日神社の能装束が調製された時期は、天正年間(1573−92)頃と考えるのが妥当と思われる。永享4(1432)年から天文8(1539)年までは、室町幕府が明国に日本刀を輸出していた記録が残っているが(注14)、天正年間は進貢貿易では日本刀の輸出を行わず、戦国大名と明国との間での取引が中心であった時期に相当する。さらに、関・春日神社との関係を見ていく上で注意したい点は、舶来染織以外を使用した、和製の繍箔や直垂・素襖に見られる紋所である。春日神社には揚羽蝶に梅の折枝を丸紋にした模様を散らした揃いの子方の繍箔が3領ある。同じく、揚羽蝶紋が素襖の五ツ所紋の腰当および袴の大紋部分に染められている。揚羽蝶の家紋を持つ家との関係が強いことは確かである。もう一点は、直垂に菊と五七桐の紋が染められている点である。これもまた、当時、菊桐の紋を使用することが許された人物が関わっていることを示唆する。以上の点に留意して、天正年間前後に関を支配していた人物を概観することとしたい。永禄10年(1568)から天正4年(1576)までの間、岐阜城を拠点として、その周辺地域を支配していたのは織田信長(1534−1582)であった。永禄12年(1569)4月、信長は関鍛冶に精錬鉄を供給していた勢至の鉄座に安堵状を出し、元亀2年(1571)には、関鍛冶奈良流派の頭領・兼常助右衛門に関鍛冶職の安堵状を出している(『武藤助右衛門家文書』)。天正元年以降、関町の支配は織田家による直轄領だった可能性がある。天正10年(1982)頃は、織田信孝が関付近を支配し、やはり勢至の鉄座に安堵状を出している。天正11年(1583)4月に、織田信孝は羽柴秀吉に岐阜城を攻められ落城、関地域は秀吉の臣下森長可に与えられた。この年の3月22日、羽柴秀吉もまた、勢至の鉄座に安堵状を発している。森長可が翌年4月長久手の戦いで戦死すると、

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