―368―その弟の忠政が統治したが、天正13年には池田輝政の所領となり、その家臣山田八郎次郎が支配するようになった。天正18年以降は、秀吉の蔵入地となったが、関で榑座を取りまとめていた長谷川五郎兵衛家から、枝柿一箱・飼造刀十・小刀十・鋏二を受けたことについての朱印状が遺されている(『長谷川家文書』)。文禄4年までは関は秀吉の蔵入地であったが、その冬からは、犬山城主、石川光吉による支配となった。慶長2年(1598)8月には織田秀信の所領となったが、慶長5年(1600)の関が原の合戦により、徳川家康の支配下となった。以後、大島家が関を統治することとなった。以上に揚げた統治者たちは、いずれも、関・春日神社に能装束を奉納した可能性がある。その内、織田家・池田家・大島家は揚羽蝶を家紋としていた。また、菊桐の紋を使用していた可能性があるのは、織田家・豊臣家・池田家である。本稿では、奉納した人物を特定するには至らなかったが、関鍛冶の活躍期と関で製作された日本刀の需要などと関連付けられ得るとすれば、京都や大坂などと往来のあった実力者をあてるのが妥当なのではないかと思われる。奈良金春座伝来能装束には、豊臣秀吉に贔屓にされた能役者・金春安照時代の能装束が含まれているが、その中に、関・春日神社の能装束と同じ縹地蓮鳳凰菊花縞文様で「袁思誠」の織銘のある銀襴で製作された側次がある(東京国立博物館所蔵)。文禄2年(1593)年正月18日付けの秀吉朱印状には、秀吉が古手の金襴で側次を2領作らせるよう命じたことが記され、権力者が古い舶載染織をストックしていた事をうかがわせ、裂の伝来した来歴に思いを馳せると興味はつきない。まとめにかえて以上、中世的特色を示す関・春日神社の能装束に使用される舶来染織について、その全容を紹介し、名物裂には見られないタイプの銀襴や緞子、黄緞といった、おそらくは民間の工房で製作されたと思われる舶来染織が、天正年間前後に戦国大名などの民間貿易によって明国に運ばれ、関と深いかかわりを持つ当時の実力者によって能装束が調製されたことについて、私見を述べた。今回の研究では、舶来染織を使用した能装束として、その基本資料である関・春日神社の能装束を中心とした基礎研究にとどまったものの、今後も中国や朝鮮と日本との物と技術の交流に留意しつつ、能装束における舶来染織の流通と日本における舶来染織の位置づけについて、名物裂とは違った観点から考察を進める所存である。
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