―374―康煕琺瑯彩が、康熙帝と漢人高官の間でいかなるイメージをもち、どのような表象として機能したのかという点に着目して考察を行う。康煕琺瑯彩を、満州人皇帝である康煕帝の、漢人支配における文化政策という視野の中に位置づけ、康煕琺瑯彩の西洋起源の新技術と意匠が、康熙帝が漢人高官への優位を示す王権誇示の表象として機能した側面について考察したい。2.康煕琺瑯彩と江南の漢人高官―下賜品としての側面琺瑯彩研究の基本史料のひとつに、地方高官から皇帝への上奏文「奏摺」を集めた档案史料がある。档案によって琺瑯彩製作、その顔料である琺瑯料製造の経緯が明らかにされてきた。奏摺は清朝独自の制度で、皇帝と地方長官が直接に応答する密書であり、書き加えられた皇帝の文言も、祐筆ではなく皇帝本人の直筆である。報告者はかつて、同じ档案によって琺瑯彩の成立時期に関する研究を行ったが、ここでその档案を再考し、康熙帝より下賜された琺瑯彩への謝辞を残しているのが、いずれも江南地方の漢人高官であったことに、改めて注目したい。以下にに漢人高官の役職・氏名・上奏文の日付と、琺瑯彩に関する記述を列挙する(注2)。①広西巡撫 陳元龍・康煕55年(1716)9月11日「御製法琅五彩紅玻璃鼻烟壺一、八角盒硯一、水丞一、圓香盒一」(後の文に「恩賜法琅寶器四種」とあるので、すべて琺瑯彩であったと考えてよいだろう。)②広西総督 左世永・康煕57年(1718)6月13日「御製法瑯水盛壹箇」「法瑯鼻煙壺壹箇」③両広総督 楊琳・康煕57年(1718)10月13日「御製法瑯盒」「法瑯水中盛」「法瑯鼻壺烟」④両広総督 楊琳・康煕57年(1718)12月21日「御製法瑯盖碗一個、香爐一個」康煕御製琺瑯彩が下賜された記録の、管見の限りではもっとも早い事例である、①康煕55年(1716)9月11日付、陳元龍の上奏文には、「今まで私は、西洋人のものである琺瑯彩は、中国人には作ることのできないものと存じて降りました。しかし陛下の御製琺瑯彩の器は燦然と光り輝くばかりで、西洋琺瑯彩の百倍も素晴らしいものでございます」との賛辞が書き加えられている。次いで③康煕57年(1718)10月13日付、楊琳の上奏文にも、「琺瑯彩は外国から来る物と存じておりましたが、今、陛下の御
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