鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―375―製琺瑯彩を拝見すると、その精巧さ鮮やかさは外国のものに百倍も勝るものでございます」と、同様に西洋七宝と比較したうえで、康煕御製琺瑯彩が西洋七宝を凌駕している旨の賛嘆の辞を記している。こうした文言の意味の検討については後述する。琺瑯彩が下賜された広西・広東の高官は、無線七宝を含む西洋文物の窓口であった土地から、文物を皇帝へ送り届けた責任者であった。康煕御製琺瑯彩の下賜は、そうした役職に向けたものであったとも考えられるが、同時に、彼ら漢人高官がいずれも、江南地方に影響力をもつ読書人であったことにも留意したい。下賜を受けた内の一人、陳元龍(1652−1736。字は広陵、号は乾斎)は特に著名な人物で、康煕24年(1785)に科挙合格した際、殿試及第二位「棒眼」の栄誉に浴した秀才であり、雍正年間に文淵閣大学士にまで進み、博物書『格致鏡原』(雍正13年/1735)の編者としても知られる(注3)。その生家、浙江の海寧陳氏は『清朝野史大觀』によれば、明代より全国に知られた著名な一族として、江南において少なからぬ影響力を有したことがわかる(注4)。康熙帝は六度にわたる南巡を行ったことからも知られるように、江南掌握を重視した。江南の漢人の間に、清朝を外夷とみなす考えが根強く残っていたからである。ここでは、下賜を受けた地方高官が、江南の有力漢人であったことを確認し、次章の宜興胎使用に関する考察を経たのち、改めて琺瑯彩下賜の意味を考えたい。3.宜興窯茶器の漢人文人社会における価値宜興窯は江蘇省の太湖にほど近い窯で、北宋時代から、特産の紫砂を材料にした器物焼造を開始したことが知られている(注5)。製品は白磁とは異なる、褐色の素地で、明代までは、康煕琺瑯彩のような装飾をほどこされたものはみられない。明代の名工と謳われた時大彬の銘をもつ「大彬款提梁壺」(南京博物院)〔図8〕も文様はない。報告者は、康煕琺瑯彩の媒体として宜興胎が使用された意味を考えるために、宜興窯の茶器が、明末清初から康煕年間にかけて、漢人社会の中でどのような位置づけと価値を与えられていたのかを、日記、随筆、花書などの文献史料に当たり調査した。この時期の中国陶磁史は景徳鎮窯を中心に語られることが多く、世界各地の美術館に所蔵されるのも景徳鎮窯製の陶磁器が多いが、こうした江南の文人生活を記録した文献を読むと、よい陶磁器として記されるのは、景徳鎮磁器では明代前期の宣徳年間の磁器が多く、意外なことに同時代の景徳鎮磁器はあまり言及されていない。代わりに

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