―376―(台北・国立故宮博物院)〔図9〕(部分図)において、文人がその書斎で喫茶の道具同時代文献に多く見受けられるのが、宜興窯製茶器への高い評価である。たとえば明末清初の文人生活を記した張岱の随筆『陶庵夢憶』巻二「砂罐錫注」には、m、時大彬、陳用卿らの名工の手になり、最上と評価された宜興窯の罐について、その価格の高さに驚嘆しながらも、一つの宜興窯製罐が、商代の彝や周の鼎に遜色ない品格を有するから、値の高さももっともであるとの評価を下している(注6)。同、巻三では、崇禎11年(1638)の文人生活の様子が活写され、明代前期の成化・宣徳年間の茶碗と共に宜興窯の茶壺が使用されたことが伝えられる。また、科挙会場の近くには、中国各地から集まる科挙受験生を目当てに考市と呼ばれる市が立ち、ここでも景徳鎮磁器ではなく、宜興窯の茶壺が販売された記録があり、文人必携の道具と看做されていた価値観がうかがえる(注7)。文徴明筆「品茶図」としているのも、画中、薄茶色に彩色された大型の宜興窯茶壺である。こうした文献資料や絵画作品からは、当時の漢人文人社会における宜興窯製茶器の高い位置づけ、陶磁製茶器において当時の文人が入手を望みえた最高の道具という価値が明確に看取できる。4.康煕琺瑯彩における「洋」の表象とその機能こうした記録の筆者たちと同じく、康煕琺瑯彩を下賜された漢人高官たちも江南文人文化の体現者であった以上、宜興窯製品に対する高い価値認識を共有していたものと考えられる。档案史料をみるかぎりは、下賜された康煕琺瑯彩に宜興胎があったかどうかは明確にしえないが、康煕57年(1718)に楊琳が下賜された蓋碗は、伝世品では銅胎と宜興胎があり、後者の可能性もある。豊麗華美な、西洋起源の琺瑯彩という新しい技術は、明代までの宜興窯が保持していた文人的価値とは対極に位置したものであったと思われる。漢人文人の眼に、彼らの清雅な道具である宜興窯茶器に、極彩色の花卉が描かれた康煕琺瑯彩は、如何ほど新奇なものに映ったであろうか。風雅と華麗、その両極端の結びつきを、下賜された漢人高官たちが肯定的に受け止めたのか、あるいは風雅の道具をまったく異様なるものに変えられた、もしくは蹂躙されたと感じたのか、その本心は、上奏文からうかがい知ることはできない。だが、文人に親しまれ、価値の高い宜興胎の上に、それを覆うように描いたからこそ、従来のものが新しい力―それは西洋の技術力であり、またそれを自在に操ることのできた康煕帝の威信でもある―のもとに宜興窯茶器が変容され、両極端のイメージが統合されて継続するというメッセージは、漢人高官に明確に
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