鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―377―届いたものと思われる。こうした康熙帝の意図を明敏に察知したからこそ、漢人高官は「陛下の御製琺瑯彩は、西洋の物の何倍も美しい」と、西洋と比較したうえ、それを康熙帝が凌駕しているという趣旨の賛嘆の辞を記したのではないだろうか。地方の高官や郷紳が手に入れることのできた品では、康熙帝の圧倒的な権威を誇示する特別な下賜品の用をなさなかったであろう。彼らの手の届かないものを下賜品としなければ意味がなかったのである。つまり、康煕琺瑯彩は、康熙帝の膝元で、江南の富裕な高官といえども入手できない琺瑯彩の装飾を、風雅の器として文人の魂の近くにあった宜興窯茶器に描くことで、康熙帝の権威の誇示が行われたと考えられる。ここで想起されるのは、満州族による異民族王朝という清王朝の性格と、その内地支配の確立期であった康煕年間という時代の特質である。満州族は、中国の華夷思想においては、本来、中華に対置される外夷である。そのため、外夷の支配者が中国皇帝として中華世界に君臨することで、皇帝としての正統性を内外に示す必要性が生じたとされる(注8)。17世紀後半には漢人の武力抵抗は清王朝によって平定されたが、その後も反清思想は出版物によって漢人知識人層へ浸透し続けたために、康煕帝はいわゆる文字獄や禁書などの弾圧政策をしばしば行った(注9)。その一方で『全唐詩』『佩文韻府』『康熙字典』『大清会典』『古今図書集成』など編纂事業によって中華文化の継承者としての清王朝の存在を誇示したのは夙に知られることである。康煕帝は、漢人支配において文化政策と自らの教養を武器にしたが、岸本美緒氏が、その博識に関して次のように指摘している。すなわち、満州人としての狩猟・武芸、中国の伝統的統治の学である儒学、新来の西洋科学にも関心を示して熟達を示すものの、康煕帝本人はいずれにも埋没することはなく、その向学心は「どの勢力に対しても弱みを見せず、臣下に対してつねに上手をとろうとする、多民族国家の帝王としての緊張感と表裏するものであった」との見解を示している(注10)。各方面の教養を、漢人への支配構造の中で可能な限り利用したのが、康煕帝の文化政策であったならば、档案史料の中に明瞭に示された、康煕御製琺瑯彩の「洋」という表象もまた、満人皇帝である、外夷である康熙帝により、漢人高官に対する優位を示す手段として西洋の技術力が利用された、と解釈できるのではないだろうか。漢人高官の上奏文に含まれた、康煕琺瑯彩への賛辞、「琺瑯彩は外国から来る物と存じておりましたが、今、陛下の御製琺瑯彩を拝見すると、その精巧さ鮮やかさは外国のものに百倍も勝るものでございます」という賛辞を再考すれば、下賜された琺瑯

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