―383―敷において「心地よいcomodo」空間を演出する装飾的ともいえる機能が期待されていたのである。3 全身像への変化1600年以降カラヴァッジョが描いた少年は、画面外側に視線をむけるという点で初期の半身像と共通するものの、全身像へと変化を遂げた。ジェノヴァの貴族の子孫であるヴィンチェンツォ・ジュスティニアーニ侯爵(1564−1637)のために、諸芸術を愛した彼の人格称揚の絵画(注8)ともいえる《勝利のアモル》〔図9〕が制作されている。ヴィンチェンツォと枢機卿の兄ベネデットは、17世紀初頭のローマにおいて最大のカラヴァッジョ・コレクターであった。サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂の祭壇画として制作されたものの、受け取りを拒否された《聖マタイと天使》第一作目(1602年頃、ベルリン、カイザー・フリードリヒ美術館旧蔵)を購入したのもこの兄弟である。ヴィンチェンツォの死後1638年2月に作成された財産目録には、画家の手になる13点の絵画が記載されている(注9)。その内訳を見ると、《荊冠のキリスト》(ウィーン、美術史美術館)や《聖ヒエロニムス》(モンセラート、サンタ・マリア修道院付属絵画館)など、ジュスティニアーニ兄弟は好んでカラヴァッジョに宗教主題の作品を描かせたようだ。ここからは、コンタレッリ礼拝堂という公的な場でデビューを果たした彼が次第に宗教画家として認識されていく過程がうかがえる。ところが、《勝利のアモル》は宗教画ではない。また、絵画が掲げられていた部屋(古絵画の大きな部屋Stanza grande de quadri antichi)のなかでも主題的に異彩を放っている。そこには屋敷のなかでも最多の絵画作品(約100点)が集められており、そのほとんどが宗教主題であった。ザンドラルトが報告しているように(注10)、《勝利のアモル》は侯爵の絵画コレクションにおいて目玉となる位置を占め、作品にこめられた意味ばかりではなく、少年が今にも画面の外に降り立つような印象を与える描き方も鑑賞者の目を楽しませていたのである。さらにカラヴァッジョは《勝利のアモル》の制作と前後して、名門貴族の分家に属するチリアコ・マッテイ(1545−1614)のために《洗礼者ヨハネ》〔図10〕を描いた(注11)。1601年6月には、チリアコの弟ジローラモ・マッテイ枢機卿(1547−1603)の屋敷に滞在していたことが知られている(注12)。カラヴァッジョはマッテイ家のなかでも社会的地位の高いジローラモを第一の主人として考えていたようだが、実際画家に対して報酬を支払っていたのはチリアコであった(注13)。チリアコの会計簿によると、1602年から約1年にわたって計4回、銀行をとおしてカラヴァッジョに支
元のページ ../index.html#393