鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注F. Haskell, Patrons and Painters: A Study in the Relations Between Italian Art and Society in the Age ofBaroque, Rev. and enl. ed., New Haven and London: Yale University Press, 1980, p.28−9. 画家やパトロンの性的嗜好が少年像に表出されているという従来の見解に対してクレイトン・ギルバートは疑問を呈している。C. E. Gilbert, Caravaggio and His Two Cardinals, Pennsylvania: PennsylvaniaState University Press, 1995, pp.215−37. ローマにおけるカラヴァッジョの住まいの変遷に関しては以下を参照。M. Marini, “L’ospiteinquieto, le residenze romane del Caravaggio”, Art e Dossier, 42, gennaio 1990, pp. 8−9. また、近年では、1592年7月まで画家がミラノ周辺にとどまっていたことを裏づける記録が公刊されている。M. Comincini, Caravaggio e il periodo milanese: Nuovi documenti sugli anni giovanili del pittore(1571-1592), Abbiategrasso: SocietàStorica Abbiatense, 2004, p.58.■M. Marini, “‘Cremona fedelissima’ tra Milano, Venezia e Ferrara: dai fratelli Campi al Caravaggio”, cat.mostra, Il Cinquecento lombardo: Da Leonardo a Caravaggio, a cura di F. Caroli, Milano:Skira, 2000,p.548.■K. Herrmann Fiore, “Caravaggio e la quadreria del Cavalier d’Arpino”, cat. mostra, Caravaggio: La lucenella pittura lombarda, Milano: Electa, 2000, pp.57−76. その後、没収された絵画コレクションは教皇の甥シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿に譲渡された(S. Macioce, Michelangelo Merisi daCaravaggio: Fonti e documenti1532−1724, Roma: Ugo Bozzi, 2003, p.228, ⅡDOC 350, p.229, ⅡDOC 351)。また、カラヴァッジョに帰属され数多くのコピーが存在する《果物を剥く少年》も記載されている。作品の真贋問題に関しては以下で詳しく論じられている。宮下規久朗『カラヴァッジョ――聖性とヴィジョン――』、名古屋大学出版会、2004年、128−50頁。―385―していた画家が教会といった公共の建造物のみならずコレクションのなかでも競合することがしばしばあった(注19)。その好例として、ジョヴァンニ・バリオーネがカラヴァッジョの《勝利のアモル》に対抗するため《俗愛に打ち勝つ聖愛》〔図11〕を描いたことがあげられる。両者の技量はもちろん、カラヴァッジョ作品本来の意味、それに対するバリオーネの機知ある反応について訪問者たちの間で議論されたであろう。少年の全身像の制作年代は、カラヴァッジョが次々に公的な委嘱による大作に取り組み、名声を博した時期に重なる。こうした経験をとおして獲得された画技、そして図像的に独創性を持つ少年像は、コレクションのなかでもまっさきに訪問者の関心をひき寄せ、その技量について称賛されたにちがいない。ひいては、新たな依頼者の獲得にもつながったと推察される。カラヴァッジョの少年像の変遷には、未熟な技法による試行錯誤・北イタリアの自然主義に根ざした絵画様式によるパトロンの文化的環境の表現・ローマにおいて確立された技量の誇示という画家の成長過程が映し出されているのである。

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