―391―式となって、聖俗双方における演劇へと連なるものとなる。あるいはそれ以上に、結婚式の祝祭もまた世俗演劇の原型となった。結婚式の一部として演劇が挿入され、そこでの舞台美術が遠近法の知識と技術を発揮する場となった。1518年のウルビーノ公ロレンツォの結婚式において、フランチャビージオとリドルフォ・ギルランダーイオが「遠近法による二枚の」舞台背景画を用いたことをヴァザーリが記している。こうした遠近法背景画を得意としていたのは当然ながら画家や建築家であった。ブルネッレスキやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ペルッツィやブオンタレンティ、サンガッロ一家やパッラーディオなど、画家や建築家が舞台演出家を兼ねていたのは、舞台装置これすなわち遠近法背景画という等式が成り立っていたからにほかならない。舞台美術だけを専門とする芸術家はあくまでも後世の産物である。ルネサンスの世俗演劇は、当然ながら古典文学を演劇化したもの、あるいはその流れを受けた世俗文学が中心だった。例えば1508年には、ペッレグリーノ・ダ・ウーディネが、アリオストの『カッサリアCassaria』をフェラーラの宮廷で上演した記録などがある。ルネサンスならではの古代への関心だけがこの傾向を生んだ理由ではなく、結婚式においては、やはりキリスト教の説話から題材をとったものよりは、“愛の女神”などが登場するギリシャ・ローマ神話主題の方が好まれたのだ。こうした古代演劇への関心は、都市に残っていた古代の劇場の遺跡への関心をよぶ。こうしてルネサンス演劇は、1486年に刊行された古代のウィトルウィウスの書をその規範として戴くこととなった。ウィトルウィウスの書における記述は、舞台美術そのものよりはむしろ演劇空間の性質に関するものであり、同書を踏襲していく書物も、多くは遠近法指導の一環として演劇空間を扱うものとなった。街中を舞台とする演劇の背景画に、都市景観図が多く描かれたのは当然のことといってよい。横長のいわゆる“理想都市”図は、揃って中央に空間を設け、左右均衡による美しい典型的なルネサンス遠近法を駆使している点で、こうした舞台背景画の隆盛と密接な関係にある。都市景観図を舞台背景の布に描いたとされるジョヴァンニ・ダ・ヴェローリが、ウィトルウィウスの書の刊行にかかわっていたことは大いに暗示的である。またブラマンテによる理想都市的な景観図もおそらく舞台背景画だと考えられている。舞台背景画としての都市景観図という伝統を担った者は他にもラファエロら枚挙にいとまがなく、後のピラネージなどもこの延長上にあると言える。よく知られているように、ウィトルウィウスは演劇空間をストーリーの性質によって三タイプに分けており、この考えをそのまま踏襲したセルリオの書の有名な遠近法画によって、これら背景画の三タイプは全欧州へと広まった。それらは“悲劇”、“喜
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