“angolo”の背景画は、ビビエナ一家によって大々的に応用され始めるまでは目立―394―angolo”と呼ばれ、ながく舞台背景画の主流となった。ユヴァッラなども同じ系統に(注9)、宮廷を主たる対象としている上で用いられている中央一点消失背景画は、明い宮廷劇〔図4〕には適していたと言うことができる。同様に、メディチ家のために作られた私的劇場もやはり唯一視点を満足させるためのものだった(注8)。そして、たとえジャコモ・トレッリのような大型背景画を得意とする舞台演出家であってもらかに大型化した劇場には窮屈な固定視点にすぎたと言うこともできるだろう。複数視点と“angolo”ビビエナ一家に代表される左右両消失点は、こうした需要を満たすために登場した。中心人物フェルディナンドによる『市民のための建築』(1711年)を理論的支柱に、イタリアに残る多くの代表的大型劇場やバイロイトに残る劇場などを一族で手がけ、18世紀はまさにビビエナ一家の時代となった(注10)。舞台背景の左右に消失点を設けてそれぞれ集束させていく(assi eccentrici)方法〔図5〕は通称“Maniera per属している。こうした“angolo”の遠近法は、ジャン・ペルラン・ヴィアトールとポンポーニオ・ガウリコ(ガウリクス)が、16世紀初頭のフランスとイタリアでほぼ同時期に提出したものをその初めとする〔図6〕。ビビエナ一家は明らかにこの遠近法の応用であるが、彼らの前にも、忘れられた先駆者の一人アゴスティーノ・ミテッリ(1609−1660)が一点以上の消失点による背景画を作ったことがわかっている(現存せず)。重要な点は遠近法家ミテッリがセギッツィの協力者だったという事実である。セギッツィ自身も、転写用の方眼下絵(quadratura)からその名を与えられたいわゆる“遠近法使い(quadraturista)”の一人として知られていた(注11)。興味深いことにセギッツィにとっては“quadratura”の師匠にあたるフランチェスコ・ブリツィオは、バルトロメオ・パッセロッティとルドヴィコ・カラッチに師事していた(注12)。ボローニャにおける遠近法画の伝統が、ボローニャ画壇の中心であったカラッチ一族からつながっていたことがわかる。たないため、それまでのルネサンス的背景画と完全に乖離したものと一般には思われている。それまでは一点消失法の遠近法知識しかなく、そのため背景画もセルリオに代表される中央一点消失法によるものしか無かった −舞台美術の歴史を扱ったこれまでのいかなる論考もこうした見方に立っている。しかし、見誤ってはならない重要な事実がある。セルリオによる前掲書には、ヴィアトール的二点消失法による記述も
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