―395―ある点だ〔図7〕。セルリオ自身は確かに“angolo”による舞台背景画を作ってはいないが、必要な遠近法知識が無かったからというわけではないことがわかる。つまり、彼らが必要とした演劇空間に、“angolo”が必要なかったからにすぎない。同書はヨーロッパに広く流布したので、この遠近法自体はその後の舞台美術に大いなるインスピレーションを与えたことだろう。また同様に、ビビエナ一家も“angolo”だけを世俗劇に用いたと思われがちだが、そうではない。ジュゼッペ・ガッリ・ビビエナによる1753年の作例などは、明らかにウィトルウィウスからパッラーディオに至る舞台空間の系統の上にある(注13)。対抗宗教改革と上方性よく知られているように、15、16世紀の民衆の間では、たとえ宗教主題の演劇が上演されていた事実があっても、実際にはその教義自体はほとんど理解されていなかった。農村におけるそれは謝肉祭的な異教的祝祭に近いもので危険視されるほどだった。一方、都市部においてはギルドが存在していたせいで、ギルドごとの守護聖人の祭日には決まってパレードがおこなわれていた。これが、前述した入市式と並行して聖劇の原型となっていった。はやくもブルネッレスキや、彼を参考としたと考えられるレオナルドによって、天から降りてくる仕掛けを持つ、いわば鉛直方向に観者の視点を移動させる舞台装置が登場していた。しかし一般的には、ルネサンス聖劇はまだまだ水平方向での展開にとどまっていた。宗教行列の最後には聖劇が挿入されることが多く、“ソロモンの審判”などを演ずるための、特に遠近法的な工夫を必要としない簡素な屋外舞台が設けられた。また、16世紀のいわゆる“栄誉のアーケード”舞台のように、それら行列舞台が凱旋式を原型として持つことを明示するものもあった(注14)。しかし、対抗宗教改革によって“幻視体験”が重要視されるようになるにつれて、天に招かれる聖人の上昇などの場面においても、観者による追体験を促すような方向へと舵が切られた。絵画空間において、カラヴァッジョを中心としてなされたこの革新は、しかし演劇空間において適用されるまでには時間がかかった。ロヨラは『心霊修養』の中で、感覚的に“同一化”させるための想像力を鍛えるよう説いているが、しかし16世紀のイエズス会聖劇は、聖書のフレーズの無味乾燥な会話、下手な演技、単なる見世物の寄せ集めでしかなかった(注15)。その一方で、ベルニーニによる<聖テレサの法悦>の両側には法悦場面を眺める観客席がレリーフで設けられており、聖人の奇跡の場面において感覚の共有がいかに重視されていたかをよく示す好例
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