鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―405―宅に埋もれている。本研究においても、資料や文献を入手するのが困難であったため、当時の美術大学の指導者や学生、作家へのインタビューを重ねること、また彼/彼女らが持つチラシやカタログを収集すること自体が重要な調査となった。1.バングラデシュの独立を支えた美術20年以上にわたって「バングラデシュアジア美術ビエンナーレ」(1981−)を開催するバングラデシュは、インドとともに南アジアにおける現代美術の大きな拠点のひとつである。このビエンナーレは、日本を含めたアジア各国に加え、中東やオーストラリアまでを「アジア」に入れ、近年ではアフリカや南アメリカ、東欧などまで含めるゆるやかなくくりで行われている。地域的なアジアに限らず、次第に非西欧諸国の美術組織、作家とのネットワーク形成を目指すようになり、近年では約40カ国からの参加がある(注2)。バングラデシュを含めたベンガル地方は、昔から豊かな民俗芸術に満ち、多くの芸術家や文化人を輩出した地でもあり、美術への興味が広くもたれていた。また、日本との関係も深く、20世紀初頭に横山大観らがコルカタの北西シャンティニケータンを訪れ、オボニンドロナート・タゴールをはじめとする「ベンガル派」と親交を深め、日本美術の影響を与えたことは、広く知られるところである。1947年にイギリスの植民地支配から、ヒンドゥー教徒の国インドとムスリムの国パキスタンに分離独立したとき、現在のバングラデシュにあたる地域は、パキスタン国家の東半分である東パキスタンとなった。しかし、インドをはさんで地理的に分断された東パキスタンは、結局、政治的経済的権力を持つ西パキスタンの植民地的支配を受けることとなった。イスラームをより厳格に守ろうとした西パキスタンからすると、もともとヒンドゥーとムスリムが長く同じ地に住むことにより、ヒンドゥー的な慣習や言語、文化的背景がすでに日常生活の中に溶け込んでいた東パキスタンのベンガル人ムスリムは、不純なイスラーム教徒として目に映り、その結果、直接、間接的に文化に対しても抑圧が加えられたのである。例えば、ヒンドゥー的な要素の強い民俗芸術を表立って作ることは自己規制され、ラビンドロナト・タゴールやノズルル・イスラムの詩や芝居を公共の場で演奏することが禁止された。またパキスタン国家におけるもっとも使用人口の多いベンガル語は公用語とはならず、ウルドゥー語が強要されることとなった。これに反発したベンガル人エリートたちは、1952年、ベンガル語をパキスタンの国語のひとつとする言語運動を始め、これがバングラデシュという独立国家のナショナリズム形成の契機となった。このような可視不可視の文化的な抑圧にもっとも強く対抗し、自国の文化を守ろう

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