鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―406―としたのは、ベンガル人の芸術家たちだった。独立戦争に際しては、当時の暫定政権のもとでカムルル・ハサン(1921−1988)らが中心となってプロパガンダ・ポスターのデザイン、印刷、配布などの広報戦略を手がけ、また独立後は芸術の父といわれるザイヌル・アベディン(1914−1976)〔図1〕が戦争などで失われた民俗芸術を収集し、ショナルガオン博物館(1975)を設立した。芸術家たちは作品を制作する以外に、バングラデシュという新しい自分たちの国のために、ベンガル文化の維持保存に努めるなど社会的な活動を積極的に行っていたのである。バングラデシュの近代美術は、この芸術の父ザイヌル・アベディンとカルカッタ芸術学校(1854)で美術教育を受け、1947年のインドとパキスタンの分離独立の後にダッカへ移住した芸術家らによって切り開かれた。ザイヌル・アベディンは、1948年にダッカ芸術学校(現ダッカ大学芸術学部)を設立し、当初の教師として、カルカッタ芸術学校で学んだ芸術家らが就いた(注3)。この学校は、ザイヌル・アベディンが卒業したカルカッタ芸術学校のカリキュラムを真似て作られ(注4)、入学一年目は鉛筆による模写などが行われ、ナンダラル・ボーズ(1883−1966)が模写したアジャンター壁画をさらに模写するなどの技術的な「訓練」が繰り返された。もちろんアベディンは単にカルカッタ芸術大学の方法をそのまま踏襲するのではなく、東ベンガルの政治状況にあわせた変化(注5)を取り入れようとした。しかし、1976年にアベディンが亡くなった後、ダッカ芸術学校の教育システムはうまく働かず、たびたび校長が交代するなど経営が上手く行かなくなった。一方、チッタゴン大学では、1970年から修士課程が設けられており、70年代にはダッカ大学の学部を卒業した多くの学生たちが、更なる高等教育の機会を求めて、修士課程で学ぶためにチッタゴンへ移った。次第にダッカ大学の学生たちは、高学歴ほど就職状況がよいと考えるようになり、ダッカ大学芸術学部にも修士課程を設ける運動を1978−79年にかけて行った。チッタゴン大学で修士課程が10年ほど早く設けられたことにより、チッタゴン大学には技術のある、また学部を卒業し落着いた年齢層になった能力ある学生たちが集まり、チッタゴン美術を豊かに形成していったのである。ダッカ大学の教授陣には、ザイヌル・アベディンの他、西欧の中でもイギリスに留学した作家が多かった。また日本に留学した作家としては80年代に抽象画で目されたモハマッド・キブリア(1929―)がいるが、ダッカ大学ではこのように著名な教授から教えを請うことが出来る一方で、教授と学生との関係は、厳格な師弟関係を踏襲する方向にあった。目上の人を敬う態度は、それが形骸化し過度になった時、先生が教

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