鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―407―えたこと、先生が行うことの範囲を逸脱するような制作活動、独自の方向性への模索の道が閉ざされてしまう。それでも独自の道を進めば、よい成績評価を受けることができず、大学に残って教授になることは難しく、また先生方が懇意にしているギャラリーでは展覧会が開きにくいなど、バングラデシュ国内にいる限り、その後の美術活動が厳しい上下関係によって制限されてしまう傾向があった(注6)。「バングラデシュ・ビエンナーレ」とならんで隔年で行われる「全国美術展」や「全国若手作家大賞展」は、バングラデシュ・シルパカラ・アカデミー(注7)の主催で行われる展覧会であるが、この全国規模の展覧会はバングラデシュの現代美術の作家たちにとって自分の作品を世に問うまたとない機会である。これらの展覧会によって若手の作家が育てられ、また一般市民を含めた美術を楽しむ層がゆるやかにではあるが育てられていったのである。このような大規模な展覧会のほかに、ダッカの市内には早くから美術作品を展示販売する多くのギャラリーや買い手が存在していたが、すでにローカルの美術市場が成立していたため、ダッカの若手作家たちは、どのような絵が売れるのかをよく認識していた。その結果、その時々の市場の流行に合わせた「売れる絵」を描く作家が多くなり、似たような絵が量産されがちであるという状態が生まれた。ダッカでは、新しい情報をすぐに入手でき、経済の回転が速いという首都の特性ゆえに、一般市民のニーズがある一方で、ニーズに応えることが優先され、作家としての自己表現の追及がしがたい状況があったといえよう。2.チッタゴン派の特徴と成り立ちバングラデシュが独立した1970年代から80年代にかけてチッタゴンで美術を学んだり、教えたりした作家たちは、色鮮やかな原色に彩られ、物語性に富む構成をもち、具象的であるという特徴を持った作品を多く描いた。その創作意欲は、自由奔放な独創性と実験的な試みを常に行うという精神に満ちていた〔図3−図7〕。ダリ・アル・マムーン(1958−)〔図4〕やナズリー・ライラ・モンスール(1952−)〔図7〕は、リキシャ(注8)などの都会の大衆美術の色使いやモチーフを積極的に取り入れてきた。また、ニルーファル・チャマン(1962−)は、修士課程をシャンティニケータンで行っている時に、民俗芸術のテーマや色使いを作品に取り入れることを学んだという〔図5〕。マムーンやニルーファルのように、数枚のキャンバスをあわせてひとつの作品を描くという方法は、ダッカではあまり見られなかったものであり、チッタゴンの作家たちが新しいものを求めようとする実験的な精神を常に持ち合わせていたことが

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