―408―伺える。ディララ・ベグム・ジョリー(1962−)は、チッタゴンで学部を終えた後、ダッカで修士課程、さらにシャンティニケータンで美術を学んだが、チッタゴン時代に「自分の好きなように絵をかけ」という教育を受けたことがその後の作家人生において重要であったという。多くの作家が、チッタゴンで美術を学んだ後に、インドのバローダ大学やシャンティニケータンにあるヴィシュワ・バーラティ大学で修士課程などを修了している。そこでK. G.スブラマニアンやジョゲン・チョードリーなど形象叙述派と呼ばれた作家たちを師としており、彼らの影響が少なからずあるといえよう。チッタゴンは、港湾貿易の拠点として、諸外国との交流が盛んなバングラデシュ第二の都市で、ミャンマーとの国境には多くの先住民族が住んでおり、チッタゴンの街もおのずと様々な容貌の人々と共生するという状況であった。しかし、美術作品を購入する人々や、またそれを楽しむ層は、ダッカに比べて極めて少なく、チッタゴンには70年代までギャラリーさえろくになかった。作家たちは、美術作家や音楽家など様々なジャンルの芸術家たちに声をかけて小さな展覧会を開いたりしていたが、それは同時にダッカのように買い手のニーズに合わせた「売れる絵」を描く必要も機会もないことを意味していた。ものづくりという共通点をもつ異ジャンルとの交流が創作意欲をさらに高めていたのである。このような活動の中でこの比較的小さな街では、自然と芸術家たちのネットワークやコミュニティが生まれ、大学内においても先生と生徒という厳格な師弟関係ではなく、ともにチッタゴンで美術に関わる先輩と後輩という立場が貫かれ、大学内のみならず、その私生活全般においてもチッタゴン美術を、また新生バングラデシュ国家の美術を盛り上げたいという気概に満ちていたのである。このようなチッタゴン派の特徴が生まれ、チッタゴン作家同士の密なネットワークが築かれた背景には、チッタゴンの美術の基礎を築いたラシッド・チョードリー(1932−1986)〔図2〕の優れた教育指導、教育機関や展覧会などの制度整備などがあった。裕福なムスリムの家庭に生まれたラシッド・チョードリーは、1954年ダッカ芸術学校を卒業し、その後マドリッド中央美術学院彫刻科に留学し(1956−57)、また1960年からはパリでタペストリーの制作を始めた。1965年に帰国した後、1968年にチッタゴン大学美術学部を創設し、チッタゴンにおける美術教育の基盤整備に指導力を発揮した。彼は、実験的な創作方法を重視し、作家の個性を伸ばすことが重要である
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