―409―と考えていたが、その指導方法は、マドリッドやパリで自分が受けた美術教育に基づいていた。これは、ちょうどダッカ芸術学校のカリキュラムがザイヌル・アベディンの卒業したカルカッタ芸術学校のそれを参考にしたのと同じである。イギリスのヴィクトリア朝風のカルカッタ芸術学校と1950−60年代のスペインやフランスの美術大学での美術教育のありかたが、ダッカとチッタゴンの開校当初の美術教育に大きく影響しているのである。チッタゴン大学には、その後ラシッド・チョードリーの片腕としてイタリアへ留学して活躍したムルタザ・バシール(1932−)が教師として加わり、彼もまたイタリアで受けた「正しいとか間違っているとかではなく、自由に自分の描きたい絵を描け(注9)」という美術教育をチッタゴンで実践して行った。若手作家たちのスター的存在であったムルタザ・バシールがチッタゴン大学の教師になったことで、ダッカの若手作家たちはチッタゴンへ目をむけるようになり、またダッカよりも早く設立されていた修士課程で学びたい学生も多くいた。その中には、1960年代に首都ダッカで結成され、その後チッタゴンに移り住んだ「ペインターズ・グループ(注10)」などの若手作家のグループがいた。彼らは、ラシッド・チョードリーのもとでチッタゴン大学の講師などを務めるようになり、チッタゴン派の第二世代となっていくが、彼らもまたチッタゴンの自由な雰囲気や創作意欲に満ちた環境を求めてチッタゴンに移り住み、現在に到るまでそこで制作活動を行っている。ラシッド・チョードリーはチッタゴン大学の学部、修士課程を創設したほかに、大学に入るための専門学校である私立のチッタゴン芸術学校も創設し、若手育成に努め、また美術を学んだ学生たちの作品発表する場が必要だとして、「コラバガン」(現在のチッタゴン・シルパカラアカデミー)というギャラリーの運営も始めた。その後、1986年に54歳の若さで亡くなるまで、彼はチッタゴンにおける美術教育に約15年間も力を注いだ。彼がチッタゴンにいた期間(1969−1981)は、ちょうどベンガル語の言語運動から発展した新生バングラデシュ建国の機運が盛り上がった時代であり、独立後も政治的経済的不安はあったものの、自分たちの国の美術を発展させたいという気持ちとその国において自由な表現をすることとが重ね合わさり、チッタゴン独自の美術が展開したといえよう。おわりに1970年代から80年代初めにかけて、チッタゴンでは強い独自性とユニークで優れた多くの作家が活動したが、その時期にチッタゴンで美術を教えたり、また学んだりした作家たちを「チッタゴン派」ということができるだろう。この時期に首都ダッカ開
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