注バングラデシュで出版されている美術評論誌としては、「ART」(英語)、また近年ベンガル財団から創刊された「Jamini」(英語)、「Kali o Karom(インクとペン)」(ベンガル語)などがある。 「バングラデシュ・ビエンナーレ」は年々参加国を増やし続け、1981年の第1回展はアジア14カ国の参加だったが、2004年の第11回展では、過去最高の44カ国、600点以上の作品が展示されるまでになった(2006年はディレクターが新任交代のため、参加国、出品点数ともやや減少)。■開校当時教鞭を取っていたのは、ザイヌル・アベディンの他、アンワルル・ハク、シャフィウッディン・アフメッド、カムルル・ハサン、ハビブール・ラーマン、サイード・アリ・アフサンなど。■E. B.ハヴェルが初代校長を務めたカルカッタ芸術学校(Government School of Art, Calcutta)の■1943年のベンガル大飢饉の際、アベディンは、安い紙とインクと筆をもって、やせこけた母子の姿、ゴミに群がるカラスと人間などを、力強くもシンプルな筆致で描き出した。この飢饉のシリーズにみられるような、今現在の社会を描くという精神を、美術教育にも導入しようと試―410―催された「バングラデシュ・ビエンナーレ」や「全国若手作家大賞展」で大賞を受賞した作家にはチッタゴン派の作家が多く、また賞を取らなかったとしても、チッタゴン作家の参加なしには、質の高い優れた作品が出品されることがなく、展覧会として成功しなかったと言われる。また、福岡アジア美術館の母体である福岡市美術館で1979年から5年ごとに行われてきた「アジア美術展」には、チッタゴンの作家の作品も多く、他の海外の展覧会においても一定程度の影響を与えてきたといえよう。現在、ラシッド・チョードリーが亡くなり、ムルタザ・バシールが退官した後、チッタゴン派として明確に特定できるような作家たちは、チッタゴン大学芸術学部から新たに生まれることは少なくなった。インターネットをはじめとした様々な情報収集ツールなどによって、特定の地域に特徴を持った作家たちのまとまりが生まれづらくなったこともひとつの要因であろう。現在では、80年代までにチッタゴンで学んだ現在の中堅作家たちが、チッタゴン派の自由で革新的な、また明るい色使いによる形象叙述的な特徴を継承し、優れた作品を生み出し続けている。彼/彼女らの作品や大学での美術教育のあり方を注視し、今後チッタゴンから生まれる美術をどのように左右していくのかを見守っていきたい。付記:本調査に際しては、チッタゴン大学芸術学部アラク・ロイ教授〔図3〕より貴重な助言と協力をいただいた。こと。理想主義的なインドを描くことがよしとされていた。
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