Dカンタベリー大聖堂セント・アンセルム礼拝堂のロマネスク壁画の研究―414―(注6)。(注7)研 究 者:東京芸術大学大学院 美術研究科 博士後期課程 武 井 美 砂カンタベリー大聖堂のセント・アンセルム礼拝堂の壁画《マルタ島の聖パウロ像》(注1)〔図1〕は、12世紀イギリス・ロマネスク美術のモニュメンタル絵画の質の高さを今日に伝える貴重な遺構である。1160年頃(注2)に制作された本作品は、13世紀から19世紀末までの間、バットレスの下に隠されていたために奇跡的に保存状態が良好である。この礼拝堂はもともとペテロとパウロに捧げられたものであったため、堂内には他に《聖ペテロ像》および《荘厳のキリスト像》が描かれていたと考えられるが(注3)、現在は何れも失われている。また、比較可能なこの時期のイギリスの壁画作例もおよそ残されていないため、本作品は孤立して現存している観が強い。一方、本作品に関する先行研究にもまとまったものは乏しく、未だ他作例との比較において言及されるに留まっている。言及されるコンテクストは1130年頃に制作された《ベリー聖書》(注4)の様式との類似において(注5)、もしくは12世紀イギリス・ロマネスク美術におけるビザンティン美術の影響という概説的な文脈においてであるそこで本研究は、この《カンタベリーのパウロ像》が有する造形上の特質を今一度詳細に観察し、そこに見られる様式が12世紀イギリス・ロマネスク美術の発展の中で正確にどのような位置を占めているのかを考察する。さらに本作品が同時代のビザンティン美術をどのように受け取ったのかという問題について、本作品とビザンティン美術の諸作例を今一度比較することで、この作品の有する造形上の特質を個別具体的に明らかにしようとするものである。Ⅰ.作品概要 ――場面・ディスクリプション・図像伝統―― 《カンタベリーのパウロ像》は、セント・アンセルム礼拝堂のアプシス左上方、はるか高くにひっそりと描かれている。場面はパウロがローマに連行される際、暴風雨に遭ってマルタ島に打ち上げられた時の奇跡談である。パウロが一束の枯れ枝を火にくべようとすると蝮が現れて手に絡みつくが、焚き火の上で蝮を払いのけたところ、彼には何の被害もなく、それを見ていた人々がパウロを褒め称えるという挿話である。ここでは鮮やかなブルーの矩形の色面を背景に、パウロは画面右方向へ左足を踏み出し、大きく身をかがめてアプシス中央へと顔を向けている。左手には枯れ枝を握り、
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