E高橋由一・横山松三郎と長崎の「レーマン」―424―――幕末・明治初期の油彩画伝習と普及――研 究 者:ふくやま美術館 学芸員 萬 木 康 博はじめにこれまで、横山松三郎が最初に油彩画制作の現場を目撃し、つぶさにその製作過程を学習する機会を得ることができたのは、“1861(文久元)年箱館での「ロシア人画工・レーマン」との出会い”だとする弟子たちの記述(注1)が、通説として長く踏襲されてきた。いっぽう写真体験については、これより早く1854(嘉永7)年4月、箱館に来航したペリー提督のアメリカ艦隊に同行していたカメラマン、ブラウンの撮影の様子を遠望したことが、その最初とされている。このとき松三郎は数えで17歳だが、幼時に父が早逝していたため、母と兄弟をささえる若い「大黒柱」として、商家へ奉公に出ていたさなかのことで、この“出会い”は、写真術習学への直接の糸口とはならなかった。しかし幕末の箱館は、長崎に次いで早くから開港場となったため、ロシアのプチャーチン提督率いるディアナ号の一員であったモジャイスキー(1854年8月)、ロシア領事館の初代領事として赴任してきたゴシケヴィッチ、および同行してきた医師、植物学者(1858年9月)など、銀板写真、湿板写真を扱う外国人を目にするチャンスは、若い松三郎のごく身近に存在していた。横山松三郎が自ら写真術習学の機会をもとめて動いたのは、1863(文久3)年11月、箱館奉行所属の幕艦・健順丸に、商法方西田屋文兵衛の斡旋で乗船し、上海に向かったときである。だが期待して降りたった上海では、接触の機会を得ることができず、帰路につかなければならなかった。松三郎は結局、最終投錨港である品川から、横浜の桜田久之助(下岡蓮杖)のもとへ向かい、門を叩くことになる。松三郎の写真研究は、こうしてやっと本格的にスタートすることになるのだが、上海から品川への途中停泊地であった長崎に、“もう一人のレーマン”がいたことを記録した幕末の文書があり、このことについて検証を進めることが、かねてから筆者の懸案となっていた。1 「長崎のレーマン」を記録した幕末文書文書には現在厚紙の仮表紙が装着されており、その上に「志賀九郎助書翰集」と墨
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