鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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夫より同所ニ住居罷在候蘭造船師レーマン住居所ニ而ホトガラ写真―425―書されている。本体のほとんどは半紙に墨書、それを二ツ折にしたもの71紙が麻糸で綴じ合わされている〔図1〕。現在は長崎歴史文化博物館に保管されているこの文書の、第41紙後半につぎのような行がある。「丑六月廿七日 本陣ニ而相達一 当九月八日陸前屋服部左衛門作様英軍艦立神江御軍艦打建場製鉄所御見分ニ付拙者も早天より出役 製鉄所ニ而御昼休之節同日三字頃魯軍艦ボカテル壱艘入港ニ付魯掛リ調役並大熊直次郎殿も陸前屋ニ□□出役ニ付(幸八郎殿?)申上候処拙者□諸岡栄之助召津連(めしつれ)右軍艦ニ参り見候□大熊殿より御申聞候□帰宅諸岡同船参り候処彼ノボカテルニ而船将はスクリプリヨフ(後略)」〔図2〕「丑」は1865(慶応元)年、4月6日までは元治2年といったその年の6月に、江戸表の志賀浦太郎親朋の許に報告された、前年(1864)9月8日の記事である。発信は長崎在住の親朋の父、志賀九郎助親憲。志賀家は、江戸の最初期・元和年間から長崎淵村の庄屋として代々続いてきた。この文書は志賀親朋の没後、1917(大正6)年に県立長崎図書館に寄贈受入された一括資料『志賀文庫』中の一点である。(注2)浦太郎は1842(天保13)年11月8日生れ。1861年2月から1862年3月(文久元年−2年)まで、長崎のロシア領事館付き通詞をつとめた。その直後から、箱館奉行組下組同心として、ロシア語の指導を担当したという(注3)。「軍艦打建場製鉄所」は、先に1855(安政2)年10月幕府が開設した長崎海軍伝習所の主要施設として、1858年に建設された金属機械工場(製鉄所)、および1864(文久4)年1月に用地造成が開始された軍艦打建場(造船所)のことである。現在の長崎中心市街地域(出島、大浦側)から港を挟んで対岸の、稲佐山麓にひろがる旧淵村の飽ノ浦(あくのうら)地区、および立神(たてがみ)地区に、それぞれ製鉄所と造船所が建設、着工されていた。その製鉄所に隣接する民家を宿舎として供用されていたオランダの“造船技師レーマン”が、飽ノ浦の宿舎で「ホトガラ写真之節…」(写真撮影をしていたとき…)、といった内容であるように読める。2 オランダの公文書、史料によって描き出される「レーマン」像今回の助成研究にあたって、これまで筆者が着手できないでいたオランダへのアプローチから始めることにした。東京のオランダ大使館・報道文化部、そして財団法人

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