鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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―427―(Oldenburg)公国。オランダ人でないことはもちろんだが、明治期にプロイセン(孛刊の同誌第75輯に、楠本寿一の「立神軍艦打建所と造船師カール・レーマン」があり、注目したい。楠本氏は、Carl Lehmannの実弟であるRudolph Lehmannを糸口に、Carlを含めた一族の系譜をはじめて明らかにした。レーマンの出生地は、北部ドイツのオルデンブルク漏生)人とされたこともありこれも妥当とはいえない、との見解をとられている。さらに生年月日については、1831(天保2)年9月28日としている(注5)。三菱重工長崎造船所に勤務しておられたという楠本氏らしく、レーマンの造船技術習得過程についての調査が入念であることが注目される。関連の部分だけを引用し、なぞっておきたい。(別紙の年表1を参照されたい。)楠本氏の調査では、現在オルデンブルクが所属するニーダーザクセン州の公文書館から入手した史料の記録を骨格とし、とくに長崎製鉄所解雇後の足取りについては、日本側の文書に拠って補いつつ、18年前としては可能な限りの「レーマン」像を描いてみせた、と言えよう。つぎに、最近の研究著作で特筆すべきものに荒木康彦氏の『近代日独交渉史序説』(雄松堂出版、2003年3月)がある。この研究は、“ドイツの大学に学籍をおいた最初の日本人学生”についての歴史的解明をテーマとしたものである。原題が「馬島済治のハイデルベルク大学留学とカール・レーマンの寄与」とされていたもので、会津藩出身の馬島のドイツ留学にかかわった「独乙人霊満」(注6)の実像を掘りおこす厳密な実証により、馬島の留学の意味と、幕末明治初期の日本にレーマンが果たした役割を具体的に解明する論文として出色のものである。オルデンブルク市にあるニーダーザクセン国立古文書館、同市の簡易裁判所などをはじめ、荒木氏がドイツ、フランスなど各地の原史料を渉猟し、あわせて長崎など国内の関連文書にもあたって確認されたレーマンの経歴を、要点だけ整理したい。(別紙の年表2を参照されたい。)オランダ東インド会社との契約期間3年も切れるレーマンは、造船技師から商人への転向を余儀なくされた。しかも、幕末の日本が必要としていたもうひとつの近代化アイテム=銃を売込む武器商人への変身は、筆者には全く意外な展開である。荒木氏は、レーマンの取扱った撃針銃がドイツと日本の近代化過程に果たした役割への考察を踏まえながら、まさにこのような時代にドイツの大学に留学した馬島と、彼を支援したレーマンの動向について、さらにこの後も考証を続ける。しかし、筆者の本助成研究においては、1864(元治元)年の長崎における横山松三郎との接触の可

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