―428―能性について検討することがテーマであり、自ずと参照範囲を限定しなければならない。ただし、荒木氏の著書で、本助成研究にとってたいへん重要な一点の資料が示されていることには言及しておかなければならない。それは同書口絵の第一頁に、図版の2として掲げられた「カール・レーマン」の肖像写真である。筆者はもちろんこの写真の所蔵先である同志社大学内の同志社社史史料センターを訪ね、原資料を確認させていただいた。〔図3、裏面が図4〕ただ、撮影時期を特定しうる手掛りは、残念ながら得られなかったが、レーマンと会津藩の山本覚馬、そして覚馬と新島襄との関係から、この写真が新島の遺品の中に含まれることになる経緯が浮かんでくる(注7)。仮にこの写真が、1868(明治元)年以降の撮影であったとしても、これより4年前の彼自身の風貌を想像し得ないほど激変しているとは思えない。4 ライデン大学写真絵画資料室に集積された幕末長崎の写真日蘭学会(東京)のW.G.J.レメリンク氏からご教示いただいたもうひとつの重要な調査対象が、ライデン大学図書館のPrentenkabinet(写真絵画資料室)である。ここには、20年前の1986年時点で「8万枚以上の写真、アルバム千冊、カメラ8百台、その他の機械」(注8)、および関連図書など同資料室自身の所蔵品があり、そのなかにオランダ国内の海事博物館などが所蔵する写真、日本渡航者の遺族・関係者など個人所蔵の写真の複写、および寄託されている写真など、幕末の日本を記録した約800点の写真の画像データも集積されている。その中から、長崎・飽ノ浦の製鉄所に関する5点の写真に、筆者は特に注目した。まず飽ノ浦の製鉄所俯瞰全景〔図5〕、立神側から見た製鉄所〔図6〕、所内の工場建設用鉄骨組立場〔図7〕、工作場(?)の内部〔図8〕、そして飽ノ浦の民家〔図9〕である。日蘭学会事務局からご教示いただいた長崎大学図書館のHP「幕末開港と長崎」中に、この〔図9〕も収録されており、つぎのような無記名のコメントが付されている。「長崎の対岸になる飽の浦岩瀬道にあった民家で、長崎製鉄所の蘭人止宿所である。2階から外を眺めているのは、製鉄所のなかに造船場を建設するため……長崎を訪れ……民家に止宿していた造船師カール・レーマン(C.Lehmann)か、造営師シャルル・レミー(C.Remy)のいずれかと思われる。」そして撮影者を「ベアト」(注9)、
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