鹿島美術研究 年報第23号別冊(2006)
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注「横山先生履歴」横山家に伝えられているもので、罫紙に墨書、紙数13、紙撚り綴じで、末紙に「明治十七年十月十八日 門人亀井至一、下國羆之輔等先生ノ遺記ニ拠リ嘗テ聞ク所ヲ併テ謹テ志ス」と記されている。筆者旧稿「『旧江戸城ノ図』と横山松三郎」(『MUSEUM』No.349東京国立博物館,1980年4月,21〜31頁)の注16を参照されたい。 岩]義則「ロシア船の来港と長崎稲佐の地域社会――志賀文庫の分析から――」(『歴史評論』No.669校倉書房,2006年1月,16〜28頁)の註(1)に「志賀文庫」の概要が示されている。志賀家についても、同論文の冒頭にまとめられた岩]氏の調査に拠った。■日宇孝良「ロシア通詞志賀親朋」(『ながさきの空―長崎歴文協短信』280号■他に「Remy, Ir. Charles」についてもデータをいただいたが、本研究の対象ではない人物で、レーマンの同僚。通常「造営師」と称されているが、レーマンとの職務分担の詳細は詳かでない。■後出の荒木康彦氏による調査では同年だが「11月28日」となっている。筆者がこの点について■東京・谷中霊園の「従五位勲五等小松斉治君之墓」に刻まれた略歴中の「十八遊長崎就独乙人霊満傳其国語」との部分に、この用字による表記がある。荒木氏の著書30〜31頁に全文と釈文が掲載されている。■同志社大学神学部教授・本井康博氏のご教示による。なお、同志社社史資料センターに於ける資料の閲覧にあたっては、同資料センター事務長の九鬼弘一氏をはじめ、同大文学部教授・岸文和氏にもお世話になった。■展覧会図録『甦る幕末』(朝日新聞社,1986年)の巻頭、オランダ国立ライデン大学 理事長―430―しかしまだ〔図9〕の二階窓辺の人物が、Carl Wilhelm Heinrich Lehmannであると断定できる材料が、揃ったわけではない。当時の長崎に、立派な髭をたくわえた「蘭人」は、他にもいた。A. F. Bauduinの末弟であり領事でもあったA. J. Bauduin(長崎写真師の鼻祖・上野彦馬が写真機を購入する際に商社に在籍し、その取引に関与してもいる。)、そしてオランダ副領事、総領事をつとめたD. G. van Polsbroekも、どちらもベアトとの接点は有り得た。元治元(1864)年の七月に、上海から品川への途中、長崎に立寄った横山松三郎を、同船していた外国奉行支配調役格・通弁御用頭取の森山多吉郎は、長崎市中の心宛に案内してまわったというが、上野彦馬には引合わせなかったのだろうか。ボードゥイン・アルバムの原本にもあたらなければならない。そして「レーマン」を、「ロシア人」の線からも洗いなおしてみなければならない。K. J.カッツ氏の「あいさつ」文中から引用。長崎歴史文化協会研究室,2005年11月,1枚物)(『ながさきの空』第17集 株式会社十八銀行,2006年1月,29〜30頁に再録)に拠った。検証できていないので、敢えて“両論併記”する。

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