*fig1、2、3、4:photo by Y. Yurugi―432―*fig5、6、7、8、9:ByCourtesy of Prentenkabinet Universiteitsbibliotheek Leiden年表1そして1862(文久2)年、日本政府(幕府)の要請により長崎に赴任………、となる。楠本氏の論文には、この部分に詳細な註が逐条的に付されており、造船技術者としてキャリアを積んでいく過程がよく読み取れる。しかしこの後の年表は、各年1行の3項のみでひとまず終っている。年表21831(天保2)9月28日 北部ドイツのOldenburgに生まる。****出生地Oldenburgの学校を卒業後、Weser川の下流沿岸にある造船所及びStettin(現Szczecin、1958(嘉永7−安政元)Bremerhaven(Hamburgの西94kmの港町)で教育をうけ、更に一年1861(万延2−文久元)Rotterdam(オランダ)の“Anthony van Hoboken en Zonen”(海運業、造船1867(慶応3)(一時)帰国。1868(慶応4−明治元)Hamburgから来日した友人と大阪に貿易商社を設立、レーマン・ハルトマ1874(明治7)4月21日 Mansholt(Wiefeistede, Oldenburgの北北西16km)で死去し、同月25日1831年11月28日 オルデンブルク高等司法顧問官Alexander Adolph Lehmannの長男として、同地1862(文久2)年(4月7日、太陰暦では3月9日)最新の造船所の建設、船の建造の指導、お1865(元治2−慶応元)3月 同職を解雇され、(軍艦打建所技師宿舎の飽ノ浦から)出島に居所Baltimore(アメリカ東部の工業都市)で教育をうける。Oldenburgに埋葬、享年43才。****(少年期からの予備教育過程、および造船技術を習得する過程は、前出の楠元論文にまとめポーランド)の造船学校で造船技術を習得。業を経営)に属する造船所で工事監督に従事。ン商会と称す。に出生。られた経歴のとおりだが、次項だけ留意しておきたい)1861年まで海運業のA. von Hoboken & Zoonen社が、その商船隊のために維持しているロッテルダムの造船所で監理の職にあたる。よび造船学の授業を担当すべく長崎に到着。を移す。
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