―436―て、1623年に宮廷入りを果たす。この事実は、ベラスケスとセビーリャの貴族の間に、従来指摘されてきたような知的、芸術的側面からの影響とは別の、さらに興味深い関係が存在していた可能性を示唆している。しかし、本研究の狙いは、そうした貴族との関係を明らかにするのみならず、その中から生み出されたベラスケスのボデゴンそのものに、コンベルソとしての出自に纏わる問題意識がいかに反映されているかを検証することにある。ベラスケスがコンベルソの血を引いていたばかりでなく、その周囲には、コンベルソとしての出自ゆえに特殊な思想を持つ貴族が存在した。そうした環境で生み出されたボデゴンをこの問題と結び付けて検討することこそ、新たな局面を迎えたベラスケス研究の大きな課題であろう。本稿では、《セビーリャの水売り》を対象として、画家とその周辺の貴族のコンベルソとしての問題意識がいかなるかたちで作品に表れているのかを考察したい。《セビーリャの水売り》〔図1〕は、1622年4月か1623年8月のマドリード来訪時に画家本人によって持参され、ベラスケスを宮廷で歓待したセビーリャの貴族フアン・デ・フォンセカのコレクションに入った作品であり(注10)、この問題を検討する上で好適であると考えられる。1 コンベルソの家系に属する知的貴族:セビーリャから宮廷へベラスケスのボデゴンを所有した貴族は、古代から同時代に至るまでの該博な人文主義的教養を有するセビーリャでも有数の知識人であった。その多くは芸術にも造詣が深く、自ら絵筆を握る者もいた(注11)。パチェーコはこれらの知識人を邸宅に集めて所謂「アカデミア」を開催、そこでの知識人との出会いは若いベラスケスの芸術形成に決定的な影響を与えたことが了承されている(注12)。フアン・デ・フォンセカ・イ・フィゲロアは、このアカデミアを訪れる貴族の一人であった(注13)。1608−10年にはサラマンカに滞在、1613年以降もセビーリャには不在で、1615年にはマドリードに使用人付きの居を構えているため、アカデミアへの貢献度はあまり大きくなかったと考えられる(注14)。しかしベラスケスとの関係で興味深いのは、フォンセカがコンベルソの家系に属するという、これまで注目されてこなかった事実である。バダホスの司教であった父方の曾祖父フアン・ロドリゲス・デ・フォンセカはコンベルソの女性アナ・デ・ウリョアと結婚、このため子孫は騎士修道会(以下、騎士団と略す)入りを果たす為に大変な苦労を経験したのである(注15)。フアン・デ・フォンセカもセビーリャ大聖堂参事会入りに際して1606年、純粋なカトリック教徒以外が公職に付くことを禁ずる血の純潔規約に基づき審査を受け
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